ポール・オースターのニューヨーク三部作

knockeye2012-10-20

 明らかな冤罪事件を「誤認逮捕」としか報じない日本のマスコミに呆れている。権力を監視する責任意識が彼らにあれば、村木厚子冤罪事件をうけて、捜査の可視化をうながすキャンペーンくらいあっていいはずだったが、知ってのとおり沈黙を守って嵐の過ぎるのを待っただけ。今回のことも「誤認逮捕を謝罪」で手打ちにするつもりにちがいない。日本のマスコミはこの国で繰り返される冤罪事件の事実上の共犯者だ。今日のこのエントリーとは何も関係ないけれど、いちおうこれだけは書いておく。
 くわえて、朝日新聞社によるけがらわしい差別記事もあったが、朝日新聞社は戦前からそうした体質であるらしいことは以下の本が参考になるらしい。手元にあるけれど正直言って読む気になれない。

占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎 (朝日選書)

占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎 (朝日選書)

朝日新聞の中国侵略

朝日新聞の中国侵略

 金曜日、仕事が遅くなってしまったので、体調と相談して土曜日はどこにもでかけず読書。
 ポール・オースターのニューヨーク三部作を読んだ。
ガラスの街

ガラスの街

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 『トゥルー・ストーリーズ』につづられた苦闘時代のあとやっと出版にこぎつけた、ポール・オースターの小説第一作が『ガラスの街』ということになる。そのいみでは、偶然だが、『トゥルー・ストーリーズ』を先に読んでいたことが、読書にちょっとした味わいを加えてくれた。なんといっても、三つの小説の主人公がみな、ものを書いているし、そのうちふたりは職業的もの書きである。『トゥルー・ストーリーズ』の語り手がこの三部作にさまざまな姿で顔を出していると感じた。
 三部作といいながら、それぞれの作品は独立している。同じ主題の変奏曲といったふうに思えばいいのかもしれない。ものを行うこと、それを見ること、書くこと、読むことの関係がばらばらに解体され、いろいろなぐあいにつなぎ合わされる。か、ときには、つなぎ合わされない。
 わたしは、三つめの『鍵のかかった部屋』がいちばんすきだ。同じ主題が繰り返されているけれど、『ガラスの街』と『幽霊たち』はまだ闇の中にいる。『鍵のかかった部屋』の主人公は闇をかかえて一歩踏み出している。そのちがいが小説のスケールを大きくしていると思う。
 『ガラスの街』には、語り手以外にふたりの小説家が登場するが、ひとりは主人公に比べると端役にすぎない。そいつにポール・オースターという名前を与えている気楽さからもそう言えると思う。
 『幽霊たち』には、小説家が主人公ではないが、書くひと、読む人、行う人、見る人の分裂は、もっともはっきりとあらわれている。
 『鍵のかかった部屋』では、また、もの書きがふたりに戻り、そのふたりの対決が最後に止揚される。ポール・オースターはこの三部作を書き終えてようやく作家として書き始められたのではないかという、そんな開放感を感じるラストシーンだ。
 こうやって書いちゃうと重苦しい作品に思われてしまうかもしれないがそんなことはない。日本に紹介された当初は推理小説ととらえられていたくらい。そこはかとなくユーモアが漂う。『ガラスの街』でポール・オースターと主人公が交わすドン・キホーテをめぐる議論はおもしろかった。残念ながら、ポール・オースターはそのあとの二作にはでてこない。