小林信彦の週刊文春の連載なんだけど、このところものが憑いたかのように「桐島、桐島・・・」なのである。もう2回観にいって、こんどまた観にいくつもりだそうだ。
そこまで言われたら、わたしも観にいきますよ、そりゃ。
もともと9月1日に観にいくつもりだったのだけれど、読みかけだったポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』と、ツヴァイクの『女の二十四時間』がすごくよかったので、前夜、つい夜更かししてしまって、寝過ごしてしまった。
そうこうするうちに、あちこちで評判になって、そうなると、いろんな雑音も耳に入り、誰が言ったか‘校内ヒエラルキー’なんて、ぞっとしないような、ぞっとするような、ざらっとする言葉がひっかかって、なんだかなぁって。
じっさいの映画には、そんな言葉ぜんぜん出て来ないじゃないかよ。気持ちの悪い造語やめてほしいんだよね。(それとも原作にあるのかな?)
しかし、なんとなく敬遠してしまった理由はそれだけではない。世代的な遠慮っていうのか、どうもこの映画は、いま現役の10代の人たちにとって、きっと大事な映画になる予感がした。
だからって、おっさんが観ちゃいけないって理由もないのだけれど、微妙にバリヤを感じたというところ。
そこにこの小林信彦の登場なのでね。しかし、小林信彦という人はやはりすごいわ。昭和ひとけたで「桐島、部活」大絶賛はやっぱりすごいんじゃないの。
いま、もういちど今週の「本音を申せば」を読み返してみて、にやりとくるところがあった。
・・・「台風クラブ」が煮えたぎっているのに、「桐島」はクールである。学園の空気も、高校生たちも、男女を問わず、クールだ。二〇一二年の空気は、こういうものであり、高校生が<涙なくては見られない>(「キネマ旬報」十月上旬号の投書)というのは、同世代の正直な感想だろう。学園という小宇宙の空気はどんよとした社会の空気を反映している、とぼくも思う。だが、人は生きていかなければならない。
ものごころつく頃には、すでに奪われていて、失われていて、そして、彼らどうし奪い合い、これからも失われ続けていく世代に、かける言葉は見つからない。
しかし、生きていかなければならない。過去のない世代は、未来を自分で作っていくしかない。屋上の夕日のシーンが美しいのは、否も応もない時の容赦のなさ。この子たちもすぐにおっさんになる。そして、彼ら自身がそれを十分に知っている。青春の特権意識なんて、今の若者には絶無なのである。
公式サイトを見て驚いた。わたしはヒューマントラスト渋谷で観たのだけれど、8月に封切られた映画なのに、東京だけでも、テアトル新宿、角川シネマ新宿などつぎつぎとリピート上映が始まっている。