「あなたを抱きしめる日まで」

knockeye2014-03-15

 「007 スカイフォール」で、英国諜報部のボス「M」を演じたジュディ・デンチ主演、「クィーン」のスティーヴン・フリアーズ監督。原作は、2009年にイギリスで出版された、マーティン・シックススミス著「The Lost Child of Philomena Lee」。フィロミナ・リーはジュディ・デンチが演じている実在の女性で、映画のプロットは、この本が出版されるいきさつに沿って展開する。
 舞台はアイルランド、2009年の50年前だから、事件の発端は、1959年ということになる。その当時、アイルランドの片田舎では、若い女性が私生児を産んでしまった場合、母子とも修道院に入れられて、子供は、子供がいない裕福な夫婦に斡旋されるというシステムが、暗黙のうちにできあがっていたということだろう。
 修道院はそれについて対価を得ていただろうと推測する。母親の方は、安い(あるいは無料なのか、そのへんはよくわからない)労働力として使われるわけだから、修道院としては損はでないだろう。慈善事業とはいえない。
 キリスト教社会において、修道院とはつまり、そういうシステムとしての面も意味として持っているわけだろう。
 キリスト教が、社会の一部にシステムとして組み込まれている西欧と、明治以降、概念としてしかキリスト教を受容していない日本とでは、キリスト教の持っている意味が違う。あえていえば、日本では、キリスト教は、‘ひもの’だが、西欧では、それはくさりかけていても‘なまもの’だ。あるいはもう腐っているのか。
 アイルランドだから、キリスト教と言っても、カソリックで、大英帝国カソリックというと、グレアム・グリーンイーヴリン・ウォーを思い出すのだけれど、かれらのどちらの、何の本に向けられた批判か忘れたが、‘護教的’という言葉が、映画を見終わったあと、頭に浮かんだのはたしかだった。
 1959年からの50年間で、女性の権利をめぐる状況が大きく動いたということを思わざるえない。
 映画のジュディ・デンチの台詞のなかに
クリトリスとかそういうことよ」
というのがある。一般の映画の台詞に、こういう器官の名称が出てくるのは珍しいと思うが、ジュディ・デンチ演ずる、この熱心なカソリック信者の女性は、
「快楽のためのセックスは罪だ」
という、その文脈で上の台詞が出てくる。
 西欧では、割礼と称して、クリトリスの切除が行われていた時期がある。このサイトによると、目的としては、女性の自慰行為をやめさせるためで、「自慰行為は神経症や不従順、親への反抗などの様々な病の理由だと見なされていた」のだそうだ。
 遠い昔の話ではない。「ジークムント・フロイトでさえ、『性欲と愛の心理学』で『クリトリスの性器を除去することは、女性らしさを発達させることにおいて必要です。』と述べて」いるそうだ。
 クリトリスの割礼というときに、クリトリスの包皮を除去する、男性の割礼と同じ意味のものと、クリトリスそのものを除去するものが、はっきりとした区別なしに語られていて混乱する。そのこと自体が迷信の度合いを物語るわけだが、解剖学的にいうと、一般にクリトリスと呼ばれている部位は、クリトリスの先端にすぎず、クリトリス本体は、膣の上部に沿って、平均11センチほどの長さがあり、その末端は二股に分かれて、子宮口につながっていたはずだ。だからその先端を切ったとしたら、これは解剖学的見地でも何でもなく、たぶん痛いだろう。
 私の意見としては、クリトリスは切らない方がいいと思う。医者に勧められてもことわりましょう。
 性の快楽の罪悪視には、性の快楽の男性による独占、という一面があることに、気づく人は気づくでしょう。
 この映画では、そうした、キリスト教社会の女性差別が、レーガン政権下の公然とした同性愛差別にリンクしていく。
 差別は、する側が圧倒的に賤しい。キリスト教は、本来、虐げられた側の宗教であったはずだが、いつのまにか、差別の一大生産拠点となっていると、私の目に見えるのだけれど、差別する側もされる側も、多くの場合、差別に依存しているということなのかもしれない。