Instagramにあげといた、この《日月四季花鳥図屏風》を誰かが気に入ってくれたみたい。
これは、出光美術館の「美の祝典」という展覧会で観た。三期に分かれていた展覧会だったが、律儀に三期とも足を運んだ。にもかかわらず、何も書いていない。というか、出光美術館は展示替えのたびごとに訪ねているが、ここには書かないことが多い。ちょっと私の手に余ることが多い。
たとえば、この《日月四季花鳥図屏風》の美しさを言葉でどう表現すればいいのかわからない。
目を捉えるのは、絵の具がすっかり脱け落ちてしまった鹿に違いないが、しかし、それは、作家の意図ではない、だけでなく、そもそも作家が誰かさえわからない。その意味では、これは、レディー・メイドに分類されるべき作品かもしれない。
たとえば井戸の茶碗などは、レディ・メイドそのもの。千利休の「侘びたるはよし、侘ばしたるはわろし」なんて言葉は、レディ・メイド宣言といいたいほどだ。「作るな」って言ってるわけだから。
こっちの方は、さっきの部分を拡大してポストカードで売ってたもの。さっきのは私が図録のをカメラで写して繋ぎ合わせたので、よく見るとぶれてる。片手で図録を抑えてるのでね。
色が剥落したために鹿の動きを捉えた輪郭の美しさがかえって際立っている。優美で堂々とした松。ひろがる紅葉、リズミカルな萩の草むら、前景に流れる水、この名品がartist unknownなんだからね。完璧です。
新国立美術館の「日伊国交樹立150周年特別展 アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を観てきた。
ジョヴァンニ・ベッリーニの《赤い智天使の聖母》。
この智天使ってのは、頭と翼だけで胴体はないらしいね。しかも、なんでこいつら赤いんだ?。
胴体がないし、しかも、子供の顔なので、描き手としてはつまんないものだったと思われる。でも、他の人の絵を見てもこの智天使はそこらへんにころころしてる。
だからこれはさっきの《日月四季花鳥図屏風》にたとえると、楓の葉や萩と同じで、リズムなの。だから、赤いんだろう。
図録にあったけれど、時代が降って17世紀のフランスでは、ミケランジェロやラファエロに代表されるデッサンの正確さとティツィアーノの色彩と、どちらが重要か?という論争があったそうだ。
今ならいうまでもなく、そんなことに優劣をつける意味はない。なぜそんな論争が戦われたかといえば、絵をアカデミズムに結びつけるために、そういう「学術的」な議論が必要だったというだけだ。その議論を必要としたのは、アカデミズムであって、絵ではない。
絵は、原始時代の洞窟の壁にも描かれている。なぜ人が絵を描くのかしらないが、とにかく人は絵を描く。それが一方では商品として資本と結びつき、一方ではアートとして権威と結びついた。
おそらく今でも、絵はコマーシャリズムとアカデミズムの両方に疎外されながら、その状況を含んだ全体として絵であり続けているのだろう。
ティツィアーノの《受胎告知》の天使と鳩をデザインしたトートバッグがあったので買った。天使っておそらく世界初のゆるキャラだね。