グレート東郷とNO-NO BOY


 グレート東郷は、日系二世の悪役レスラー。戦後、「卑劣なジャップ」を演じて観客を煽りに煽った。163cmの身長に高下駄を履き、従者をひきつれ入場し、意味不明のティーセレモニーで試合開始を遅らせる、かと思えば、ゴングがなる前に、隠し持った塩を相手の目にこすりつける。ピンチになるとニヤニヤ笑い、お辞儀を繰り返す。血塗れでのたうちまわりながら「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。
 ワクワクするほど見事な日本人のカリカチュアライズ。森達也が映画にしたいと思うのもよくわかる。エンターテイメントに徹し切った悪役プロレスラーの走りではないだろうか。
 一時は、グレート「東條」を名乗っていたが、さすがに刺激が強すぎたらしく、観客にナイフで刺されて、入院中に「東郷」に改めた。
 身体の傷あとの多くは、試合ではなく、花道の観客に負わされたものの方が多いそうだ。観客は、彼を憎み蔑んで、ひと目見て怒号を浴びせようと会場に詰めかけた。マジソンスクウェアガーデンで、鉄人ルー・テーズとメェン・エベンターも務めたこともある。その他の事業にも成功して巨万の富を築いた。
 力道山が、大相撲を退いて、日本でプロレスを立ち上げようとした時、頼ったのがグレート東郷だった。ブラッシーと流血ファイトを演じて、テレビを見ていたお年寄りをショック死させたのはグレート東郷である。私はこの時のブラッシーの対戦相手を、なんとなく力道山だと記憶違いして憶えていた。人がショックを受けたのは、噛み付いたブラッシーではなく、血塗れで笑うグレート東郷の方だった。
 しかし、日本ではリングに上がるよりもプロモーターとして、アメリカのレスラーたちを日本に招くことに仕事の力点があった。アメリカの巨漢レスラーたちの攻撃に耐え続け、最後に空手チョップでなぎ倒す、力道山の姿に日本人は狂喜乱舞した。力道山の人気は、アメリカのグレート東郷の人気の反転だった。
 日本のレスラーに彼をよくいう人は、力道山を除くとあまりいないそうなのだが、この本にある彼らの言い分は、今見ると、ただプロとして稚拙なだけだと思う。日本のレスラーたちには、「卑劣なジャップ」、日本人の姿をしたアメリカ人、グレート東郷に対する偏見が働いていたのだろう。アメリカ人だが日系人であることに対する蔑みと、日系人だがアメリカ人であり、そして何より徹底してプロフェッショナルであることへのコンプレックス。
 力道山の死後、日本のプロレス界とは決定的な仲違い(ホテルの部屋を襲撃されて新聞沙汰にもなった)をして、アメリカに帰国した。
 森達也は、日系人でありながら「卑劣なジャップ」を演じたことと、ルー・テーズの証言から、グレート東郷の母親が、中国人だったのではないかと調査を進めるが、CENSUS(アメリカの国勢調査)から、母親の名前が「ハツ」とわかる。「ハツ」という名の中国人、朝鮮人がいないとは限らないが、当時の日系一世は結婚も制限されていて、結婚のためには日本から嫁をめとるしかなかったので、日本人以外の女性が母親だった可能性は少ないと思う。
 森達也が、グレート東郷の母親が中国人ではないのか、という妄念に憑りつかれたのは、グレート東郷の強烈な日本人のカリカチュアライズに、なにかしら情念の裏付けを見たかったためなのだと思う。
 しかし、アメリカで日系二世として生きること、そして、成功を手にすることは、多分、日本人の私たちが考えるようなことではないのだろう。
 力道山グレート東郷を心底尊敬していたそうだ。森達也は、そのこともまた、グレート東郷の母親が中国人であったことの傍証と考えていたようだが、おそらく、それも違うのだろう。
 今でこそ、力道山が朝鮮からの移民であったことが知られているが、当時はまだ秘匿されていた。日本籍でないために横綱になれないことから、相撲界を離れプロレス団体を立ち上げた力道山にとって、アメリカのプロレス界で大成功した日系二世は、まさしくロールモデルだっただろう。
 ともに、日本人に差別された立場だから、といったようなネガティブな感情から尊敬していたとは思えない。たぶん、1960年代の日本では、日本人だろうがそうでなかろうが、そんなにネガティブでウェットになっていられる余裕はなかった。
 平気で戦争犯罪者の名前をリングネームに使い、日本人を戯画化して、アメリカ人のナショナリズムを煽っている、その無国籍なあっけらかんとした態度に、実は、力道山が最も惹かれたのではないかと、これはまた私の勝手な想像だ。
 アメリカで生まれた正真正銘のアメリカ人であるにもかかわらず、日系人というだけで差別されている日系二世たちにとって、アメリカのナショナリズムも日本のナショナリズムも、ちゃんちゃらおかしい、か、さもなくば、むしろ、その両方ともにシンパシーを感じていたのかもしれない。


 NO-NO BOYとは何かというと、太平洋戦争中、強制収容所の日系アメリカ人たちに対して実施されたアンケートの、第27、28問目の問いのどちらともに「NO」と書いた人たちのことだ。そのアンケートは忠誠登録といわれていて、

第 27 問は、「あなたは、合衆国軍隊に入隊し、命ぜられたいかなる戦闘地にもおもむき、任務を遂行する意志がありますか」であり、第 28 問は「あなたはアメリカ合衆国に対し、無条件の忠誠を誓い、内外のいかなる武力による攻撃からも合衆国を忠実に守り、日本国天皇あるいは、ほかの国の政府や権力組織に対し、あらゆる形の忠誠や服従を拒否しますか」

つまり、ぶっちゃけていうと「おまえスパイじゃないよな?」という問いなのである。
 スパイと疑ってる相手に「君、スパいちゃうか?」と尋ねるのは、バカか、バカにしてるかどっちかなのだ。特に、家も財産も仕事もすべて奪って強制的に収容した上に、そういうことを尋ねるというのは、土下座させた上に、靴をなめろといってるようなことなので、それに怒ったからと言って、気が短いんですね、ということにはならないと思う。
 当然ながら、怒った人たちがいて、そのなかのリーダー格と見なされた人たちが、収容所からさらに隔離されて拘置された。『NO-NO BOY』の著者、川手さんのお父さんはその一人だった。遺品整理中に見つけた日記がこの本を書く発端になった。
 前にも書いたように、「YES」と書いた人もいて、その人たちは、戦場に赴き、勇猛果敢な活躍で日系人の評価を高めたが、それはのちの話で、収容所内では、むしろ裏切り者とされていた。この時の対立はアメリカの日系人社会で未だに尾を引いているそうである。 
 戦後、一転して日陰の身となったNO-NO BOYの存在が注目されるようになったのは、1960年代の公民権運動のころだそうだ。日系人強制収容の問題がアメリカで本格的に議論され始めたとき、むしろ、NO-NO BOYたちが注目されたのは当然だと思う。
 川手さんのおとうさんは、戦後すぐにアメリカ市民権を放棄して日本に帰る。その後、アメリカの市民権を回復したが、生涯アメリカに帰らなかった。最終的に、シェル石油日本法人の重役になった。もともとカリフォルニア大学バークレー校を卒業したエリートだった。
 この人が、アメリカの市民権を放棄して日本に帰ったのに、市民権を回復したのはなぜか、また、市民権を回復したのに、結局、アメリカに帰らなかったのはなぜか、について、この著者は、民族としては日本人であっても、国民としてはアメリカ人だったからだろうと推測している。生涯、日本の選挙権は行使しなかったそうだ。
 たぶん、日本人であることも、アメリカ人であることも、どちらも100%ホントなんだろうと思う。
 前に紹介した、すずきじゅんいちの『二つの祖国で』で、元日系兵士のジョージ・フジモリさんが「行軍訓練でアメリカ兵は次々と脱落したが、われわれは1人も脱落しなかった」と語るシーンは、今でも憶えている。義理の息子さんに「いやいや、お父さんもアメリカ兵だし」とつっこまれる。アメリカ兵に負けてたまるか、と思いながら、アメリカ兵として戦っている。
 日系兵士で構成された442連隊の中でも、傑出していたと仲間から評されているのは、ヤング・オー・キムという元在日コリアンアメリカ人だったそうだ。この人はアメリカ人であり、日本人であり、韓国人だということになる。
 ナショナリズムは完全に個人的なことだとわかる。国家は私たちの内側にあるのであって、わたしたちが国家の部品のように、国家に含まれているのではない。移民国家であるアメリカでは、これは自明なことだろう。
 日本では、「同一民族」という幻想に囚われすぎて人が国に従属しすぎる。民族なんてさじ加減一つで、例えば東京、名古屋、大阪、東北、九州を違う民族だと分けようと思えば分けられる。実際、多くの国に分かれていた江戸時代が明治維新を準備できた、政治を変える力を持ち得たのは、皮肉といえばそのとおり。