水の女

水の女 (集英社文庫 107-C)

水の女 (集英社文庫 107-C)

村上龍の対談集「存在の耐えがたきサルサ」の中上健次との対談で、中上健次サルサよりレゲエをとる、村上龍サルサはいっぱい持ってるけどレゲエは一枚も持ってない、という話になったとき、村上龍
「それはやっぱり無理にこじつけて言うと、『水の女』と『トパーズ』の違いかもしれないですね。『水の女』と『トパーズ』は、唯一、男性作家が女性のことを書けた文学だからね。」
と無理にこじつけていた。
先月観た神代辰巳の『赫い髪の女』の原作はこの短編集の中の一作「赫髪」で、文庫のあとがきも神代辰巳が書いている。しかも、ずいぶん遠慮がちに書いている。神代辰巳という人の人となりにふれる気がする。
あの映画の荒井晴彦の脚本はかなり大胆にドラマの骨格を組み替えてある。でも小説の雰囲気はほとんどそのまま残っていると思う。たとえていうと、アルバムの一曲をシングルカットしたときにちょっと膨らませたという感じ。
面白いことに紀州弁の台詞はほとんどそのまま使っている。台詞をいじってしまうと人物の存在感がゆらぐことになっただろう。
誰が書いたのか忘れたけれど、文法などあいまいでも、方言こそが言葉で、標準語は、言葉という塊のほんのうわずみにすぎないのだそうだ。
荒井晴彦は、何かのインタビューで自分が書いた脚本を演出が超えたと思ったのは、『赫い髪の女』の、宮下順子がラーメンを作るシーンくらいだと語っていた。
村上龍が、肝炎の治療中の中上健次に偶然ホテルで会ったとき、
「中上さん」
って言ったら、
「おお、おまえ元気か」
とか言われて
「肝炎大丈夫ですか」
と聞いたら、
「いや肝炎というのは、セックスと麻薬で・・・」
なんて言うから
「セックスで治るんですか」
と言ったら
「バカッ、かかるんだよ」
と(笑)。
これは、柄谷行人との対談の一節なのだけれど、他にこういうところもあった。
村上「・・・中上さんのことでそういうふうに考えると、妙な追悼文なんて書く気にならないし、いつも中上さんが監視しているような、見張っているような感じで、へたなことはできないなと。弱っているときとか、もっと書きたかっただろう。そういう人が書けなかったんだから、僕の場合はなんだかんだ言っても書けるわけで、そんなときに嘘書いたりなんかしちゃいけないと思うんです。」
(略)
柄谷「最近は皆テキストがどうのこうのというけど、今、僕は反対に、個人がすべてだと思っている。ある人間が生きているか否かは決定的なことですよ。自分も年をとってしまったというせいもあるかもしれないけど、中上が死んでも文学が続いているということが不思議なんです。・・・」
水の女』と『トパーズ』の違いはレゲエとサルサの違いだったのかもしれないが、村上龍中上健次の違いについて、村上龍は「存在の耐えがたきサルサ」のあとがきにこう書いている。
「わたしが日本近代文学に属するのかどうか、実のところそんなことはどうでもいい。
(略)
ただ、確かなのは、中上健次が最後の日本近代文学の書き手だったということだ。デビューからずっとわたしの前に中上健次はいて、その死後も彼から監視されているような気がしてならない。
(略)
もう二度と対談することができない中上健次、また彼が象徴するもの、その両者に見張られながら、わたしはこれからも小説を書いていくことをここに明らかにしたいと思う。」
また文庫版のあとがきにはこうある。
「・・・現代はどういう時代かという問いに正確に答えられる人はたぶんいないだろうが、変化に適応しようとする層と、そうではない層に分化しようとしているのではないかとわたしは個人的に思っている。
近代化の途上では、近代化のあとにどういう問題が噴出するのか誰もイメージできない。わたしは日本の近代化の終焉について、もうしばらく考え続けたいと思う。」