あの市長のトンデモ発言・認識によって、逆に「慰安婦」の事実が再びクローズアップされて、多くの人があらためてこの国の負の歴史を知ったり、考えたり、議論する機会を得たというのも、また興味深い。日本軍「慰安婦」に関するあらゆる「事実と証拠と証言」を、この機会に見る、聞く、知る、話すべき
— WATAI Takeharu/綿井健陽さん (@wataitakeharu) 2013年5月16日
っていう、綿井健陽のツイートがあって、ほんとにそうだなと思ったけれど、ただ、問題は、この「従軍慰安婦問題」が、「この国の負の歴史」などという悠長なものではなくて、「現在ただいま、わたしたち日本人がいわれない差別を受けている」という問題ではないのか、という点にある。そもそも「負の歴史」であれば、「この国の」ものに限定する必要はなくて、それが韓国のものでも、中国のものでも、アメリカのものでも、ロシアのものでも、ドイツのものでも、フランスのものでも、全人類の負の歴史にわたしたちは学ばなければならないはず。それを「この国の」負の歴史に限定して「向き合うべき」と思うその思い方自体に、すでに差別の芽があるようにわたしには聞こえる。
わたしも従軍慰安婦問題に深い知識があるわけではないし、戦争全体の悲惨、当時の日本がアジアでとった横暴で残虐な行為を否定するつもりはないが、「しかしだからといっていわれのない誹謗は許すべきではない」という橋下徹の態度の方にリアリティーを感じる。
だが、わたしはこの問題に関しては謙虚でありたいと思っている。つまり、ほんとのことは誰も知らないはずだと思う。当事者の元従軍慰安婦のひとたちにしても、その上の方でどんなからくりが動いていたか、知り得たとはとても思えない。日本人憎しという気持ち(これはそうあって当然だ)から、日本人は全員謝れと言いたい気持ちは分かる。しかしすくなくともわたしはやっていないし、やっていないことについては謝れない。もしやってないことについて謝るひとがいたとしたら、不誠実な人である。さらに、わたしの国である日本が過去に、これに国家として加担したということがあるのかどうかについて、わたしは何も知らないし、それについて真実を主張できる人がいるのかどうか疑わしいと思っている。
すくなくとも、今度の橋下発言があるまでのわたしの理解としては、国家の関与はなかったと思っていた。河野談話にしても国家の関与は認めていなかったと思っていた。それにしても、たしかに、綿井健陽のいうように、これを機会に真実が知られるものならそれは望ましい。
しかし、同時に、従軍慰安婦の問題で日本を糾弾している韓国の人たちに尋ねたいのは、そういうあなたたちに、それに日本が国家として関与したという確証があるのかということと、もし、確証もないのに日本を非難しているのだとしたら、そのあなたたちの心理の裏に、差別が働いていないかということだ。もし、差別心からそれをいっているなら、あなたたちも当時の日本人と同じだということだ。立場が変わればあなたたちも同じことをしていただろう。
ただ、何度もくり返すけれど、国家の関与が「なかった」と断言するつもりはない。あるともないとも断言できるはずもない。現在、日本にも韓国にも当事者といえる人はほとんどいない。それなのに、これほど感情的になるのは、村上春樹のいう「安酒の酔い」ではないだろうか。