マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」は、私が今まで見たこの人の映画の中でいちばんよい。もっとも、昨日今日の映画好きとしては、これほどキャリアの長い監督のベストだとは言えない。でも、マーティン・スコセッシ自身、遠藤周作の原作に出会って以来、映画化を切望していたその熱が作品に昇華していると思う。
これがこういう形で実現できたのも、最近の日本映画の復興と、それから、たぶん、アメリカの映画界が日本の映画界とわだかまりなく交流できるようになった結果だろうと思う。「ティファニーで朝食を」の「ユニオシ」を思い浮かべるとこの映画の日本人たちは、日本映画と何の違いもない。
アメリカの映画に出てくる日本人に対して、「はあ?」と思わなくなったのは、たぶん、クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」からだろうと思う。あのとき、渡辺謙が演じる栗林忠道が「天皇陛下万歳」というセリフは、日本映画以上に正確だったと思っている。栗林忠道の個性やその時の状況と切り離されていないのだ。日本人の監督がああいう風に演出できる日がいつか来るという気はしない。
しかし、「硫黄島からの手紙」でさえ、日本国内の描写となると何か違和感があった。着物とか仕草とかちょっとしたこと、観ている側としてもはっきりしないくらいの微妙なことかもしれない。二宮和也と裕木奈江の夫婦に生活感が感じられなかったと言ったら細かすぎるのかもしれないが、そういう比較を思い出すほど、今回の作りこみは徹底していた。小松菜奈が17世紀の長崎の百姓に見えるってすごくないですか?。
特に感心するのは、イッセー尾形、浅野忠信の、キリスト教を弾圧する体制側の日本人がステレオタイプな悪役に描かれていない。特に、主人公と対峙するイッセー尾形は、シドッチと対面した新井白石を思いださせさえする。それは、マーティン・スコセッシがこれを作っていることを考えると奇跡的なことだ。
浅野忠信が主人公に向かって「自分たちにも自分たちの文明がある」という。たぶん、こういうユニバーサルな言葉を当時の日本人が使ったとは思えないが、映画のセリフとして見事に肉体化されている。おそらく、遠藤周作が原作を描いた当時でさえ、このセリフは観念的すぎると感じられたかもしれないのだが、この映画が成立するひとつの背景として、イスラムのテロをいつも心の片隅に置いている西欧の意識があると思う。
今は西欧の一部といっていい日本でさえ、17世紀には、こうして文明の衝突があったということに、おそらく西欧の人たちは何がしかの感慨を覚えるのではないか。皮肉なことには、もし、今の西欧の状況をこの映画に当てはめたなら、イエズス会の宣教師たちをイスラム教徒に投影せざるえないことにも知的な刺激をうけるだろう。
水責めの拷問を公認しようとしたトランプ大統領を支持する人たちは、キリスト教徒を追い出した当時の為政者に一理あると思うか、あるいは、こんなものはイスラム国の拷問だと思うか。
いずれにせよ、今の日本はキリスト教を迫害などしていないが、今でも仏教国であり続けている。もし、今の日本がキリスト教国になっていたとしたら、仏教徒が根絶やしにされたということになるが、それはよいことだったろうか?。よくもわるくも私たちは信仰生活を失った。というより、それを失ったことさえもう意識していないはずである。
塚本晋也と窪塚洋介のふたりがこの映画の空気を作ったのは間違いなかった。実は、弾圧する側の方が弾圧される切支丹よりキリスト教に詳しいのではないかと思えるほどなのだが、信仰のある生活を観客に納得させるのは塚本晋也たち隠れキリシタンの描写なのだ。
そして、窪塚洋介のキチジローがすばらしかった。もっとも私たちに近いのは、主人公よりも彼かもしれない。
こうやって書いてくると、改めて、まるで日本映画について書いているようなのに感動してしまう。もちろん、主役はアンドリュー・ガーフィールドが演じる宣教師で、彼とアダム・ドライバーが、日本で消息を絶ったリーアム・ニーソンを探す冒険物語でもある。
ある意味、「スター・ウォーズ」よりはるかに刺激的な冒険物語なのかもしれない。最後の献辞にいたるまで、対立した価値観が激しくぶつかり合う。これはマーティン・スコセッシでなければ描けなかった世界だと思う。これほど対立する価値観に中立を保ち続けるのは並大抵の力量ではできないと思うからである。