ジョン・ルーリー展

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≪This is the man who does everything≫ John Lurie
 
 
 ワタリウム美術館ジョン・ルーリー展は、2010年以来の2度目。

 ジョン・ルーリーは、ミュージシャン、あるいは役者さんとして、つとに知られた名前なんで、逆に、絵を観るのが趣味の人には、ちょっと響かないということがあるかもしれない。たとえば、わが身をふりかえっても、香取慎吾とか浅野忠信が絵の展覧会を開いたと聞いても、このふたりは役者さんとして映画で観たいわけだから、いや、絵はいいわ、となってしまう。木梨憲武とか、藤井フミヤも同じで、そこはいいわ、ってなっちゃう。たしかにそこは難しいのかもな。
 
 でも、上の絵を観てもらえばわかるように、独特で、他に例のない絵だと思う。無理にこじつければ、パウル・クレーに似てるかもしれないけど、ジョン・ルーリーの方がもっと即興的だと思います。色とタッチが音楽的だという点は似ているのかもしれない。

 ライム病っていう、日本ではあまり耳になじみのない病気で、今は音楽や俳優の活動はしていないのだそうです。

 ワタリウム美術館は、この展覧会のためだと思うんだけど、壁の色を換えたみたい。いい色です。

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ジョン・ルーリー展 ワタリウム美術館

 根津美術館と徒歩圏内なので、時間があれば、わたしはどちらかの美術館にいくと片方にも行くようにしています。

 根津美術館は、この季節、尾形光琳の≪燕子花図屏風≫(か、もしくは、円山応挙の≪藤花図屏風≫だけど、ことしは≪燕子花図屏風≫)。
 そして、ことしは≪伊勢参宮図屏風≫が、これは今まで所蔵されていたものを今回の展示のために修理して調査してみたところ、名古屋市博物館に所蔵されている≪伊勢参宮図屏風≫とセットであることがわかったのだそうで、今回、六曲一双屏風としてセットで展示されていたのも珍しいのだろうと思います。根津美術館のが内宮、名古屋のが外宮を描いたものであったと判明したそうです。
 ≪洛中洛外図屏風≫、≪宇治図屏風≫、≪伊勢参宮道中図屏風≫と展示されていますが、こういう俯瞰的に群集を描いた屏風は時間をかけて眺めていても飽きない描き方になっています。
 絵巻物とはまた違って、始まりも終わりもなく、どこを拾ってみても楽しめて、何回見ても楽しめるようになっているんだと思いす。観たり、観なかったり、飽きたり,また観たり。コンセプトアートの対極にあるのかもしれません。家具ですよね。屏風である時点ですでに家具なんだし。家具よりコンセプトアートの方が上だと芸術家が思っているのがどうにも滑稽な気がします。
 ≪洛中洛外図≫をみると、いつも、ブリューゲルの絵を連想します。

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根津美術館 2019.4.13

萩原朔太郎もコカインやってるぞ。

 『猫町 散文詩風な小説』に

 日本で入手の困難な阿片の代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。

と書いてます。もう少し長く引用すると

 久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手数がかかり、かつ日本で入手の困難な阿片の代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所に詳しく述べる余裕がない。だがたいていの場合、私は蛙どもの群がってる沼沢地方や、極地に近く、ペンギン鳥のいる沿海地方などを彷徊した。それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮かな原色をして、海も、空も、硝子のように透明な真青だった。醒めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。

 小説と言ってますけど、「蛙どもの群がってる沼沢地方」は、詩集『定本青猫』にある「沼沢地方」の

蛙どものむらがつてゐる
さびしい沼澤地方

でしょうから、この主人公が詩人自身である事は言うまでもありませんが、そんなこというより、萩原朔太郎がコカインを常用してたとして、別に驚くことはないでしょう。『月に吠える』なんて、そう言われれば、ドラッグカルチャーですね。「竹」なんて

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

どうした?、しっかりしろ!みたいな。

 北原白秋だって『邪宗門』の頃はやってたと思います。

さて在るは、さきに吸ひたる
Hachisch の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇しき歓楽の後の魔睡や忍ぶらむ。

と「赤き僧正」にあります。

で、何が言いたいかというと、麻薬をやってる人の作品は全部回収して廃棄処分、この世から抹殺してなかったことにしますってことをやる意味ありますか?ってこと。

 大麻取締法って法律を犯しましたってなら、その処罰は司法の判断に委ねればよい。というより、委ねなきゃいけないのであって、それを、逮捕即作品封殺みたいなリンチに走ることが、真っ当なことだと思いますかってこと。

矢崎千代二、長谷川三郎とイサム・ノグチ

 ジョン・ルーリー展(ワタリウム美術館)、アンドリュー・ワイエス展(愛住館)、ギュスターヴ・モロー展(汐留ミュージアム)、アルヴァ・アアルト展(東京ステーション・ギャラリー)、ラファエル前派展(三菱一号館美術館)、千住博展(そごう美術館)、などに行ったがブログが追いつかない。
 順不同でおいおい書いていきたいと思うが、とっくに終わった展覧会で去年末、横須賀美術館でやってた「矢崎千代二 絵の旅」について、何も書かなかったのは心苦しい。私が初めて矢崎千代二を知ったのが横須賀美術館だった。横須賀出身の画家なので、所蔵品も多いのだと思う。矢崎千代二の作品を一番多く所蔵しているのは、終焉の地となった北京にある北京芸術学院で1008点を所蔵している。いつか里帰り展をやらないかなぁと期待している。
 今回再会して嬉しかったのは《ガンジス川の夏祭り》。

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ガンジス川の夏祭り》矢崎千代二


矢崎千代二といえば、パステルなので、これもパステルかと思っていたら、油絵でした。

 ということで、ちょっとした疑問が出てきた。いま、目にするこの絵は、実はこんな感じなんだけど、

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ガンジス川の夏祭り》矢崎千代二

もしかしたら、画家の最初の意図は

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ガンジス川の夏祭り》矢崎千代二

こんな具合だったかもなぁと思ってみた。

 熊谷守一の若い頃の絵で《轢死》っていう油絵を観たことがあるんだけど劣化がひどくてほぼ真っ黒になっている。油絵って、ルネッサンス頃の絵でさえ鑑賞に堪えるほどに保存されている場合が多いのに、たかだか百年にもならない前の絵がどうしてこうも劣化しているのかと考えると、そのころの日本の画材があんまりよくなかったんじゃないかと推測されて、だとすると、この矢崎千代二の絵もそうだった可能性があるなとおもわぬではない。
 矢崎千代二については、目黒区美術館で「パステル画事始め」という展覧会を観た時にちょっと詳しく書いたので、そちらも参照していただくとうれしい。面白い人だったみたい。

knockeye.hatenablog.com

 それと、これももうとっくに終わった展覧会で恐縮なんだが、横浜美術館でやっていた「イサム・ノグチと長谷川三郎」という展覧会も面白かった。イサム・ノグチについては、すこしまえにオペラシティアートギャラリーで規模の大きい回顧展があったばかりってこともあるし、箱根彫刻の森横浜美術館の常設展でよく目にしていることもあり、長谷川三郎って、あまり知らない人とコラボするキュレーションの意味がよく分からなかったせいもあり、もしかしたら、スルーしたかもしれなかったが、最寄りの美術館ということもあるので、何かのついでに立ち寄っただけなのだが、ところが、これがおもしろかった。

yokohama.art.museum

 特に、この横浜美術館学芸員さんのブログにあるフロッタージュの屏風がよかった。

 フロッタージュといえば、マックス・エルンストを思い浮かべる。でも、エルンストのフロッタージュは、案外、具象に近くないだろうか?。森に見えたり、鳥に見えたりするわけ。
 でも、長谷川三郎の場合はそうではなく、タイトルに「狂詩曲」とあるとおり、まったく即興的に、ジャクソン・ポロックを思わせる無作為な感じで図像が並んでいる。しかも、それが屏風になっている。
 これはなるほどイサム・ノグチが日本のモダニズムを解釈しなおそうとした作品群に引けを取らないものだと思ったし、この方向の作品をもっと見てみたいと思ったが、残念ながらわりと早くに亡くなったそうだ。

 書き忘れついで。こないだ書いた『マイ・ジェネレーション』というスゥィンギング・ロンドンを扱った映画には、デビッド・ホックニーも出ていた。デビッド・ホックニーはスウィギング・ロンドンの枠を超える存在になったけれど、たしかに、ビートルズローリングストーンズと同時期にアートの世界に現れたスターだった。あのころのロンドンは何なんでしょう?。
 それと、ウディ・アレンも出ていた。カメラに背を向けて、Twiggyにインタビューしている。「じゃあ、話題を変えて、好きな哲学者は誰?」なんて意地悪な質問をしている。「特にないわ、あなたはどうなの?」と逆襲されてしどろもどろになる。振り返るとウディ・アレンってオチ。

百段階段と目黒川の桜

 大岡川の夜桜について書いたときに、実は、その週の月曜日、4月1日に、目黒川の桜も観に行った話をちらっとした。写真をあげてなかったけどこんな感じだった。

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目黒川の桜 22019.4.1

 平日の昼間だし、雨空だし寒いしってこともあるからだろうが、もう川面に花びらが落ち始めているのに、どうにもさえない感じだった。これだと、横浜の大岡川の方が、どことなく猥雑な熱気があるなと思ったくらいだったんだが、この木曜日、TBSラジオの「めがねびいき」を聴いていたら、矢作さんご夫婦が夜ごはんを外食したあと、たまたま目黒川を通ろうとしたら、すごい人出。交通規制が布かれてクルマが入れるような状態になかったらしい。あのあたり、目黒川にかかっている何本かの橋のどこも封鎖されて渡れなかったそう。

 矢作さんに言わせると、今、中目黒が昔の渋谷みたいになってるそうだ。それもこれもみんなEXILEのせいではないかというのが矢作さんの分析だった。

 前にも書いたように、そのときは目黒川の桜はついでで、メインは百段階段だった。

www.hotelgajoen-tokyo.com

 1935年に雅叙園が建てた木造建築の宴会場だそうだ。7つの部屋が99段の階段で結ばれている。
 画家の名前に引っ張られてしまう私としては、鏑木清方がデザインして、欄間の美人画も清方が描いた「清方の前」が気に入った。

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百段階段 清方の間

 キッチュだったのは「漁樵の間」。


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百段階段 漁樵の間

 このレリーフ。最初は「こて絵」かともおもったが、でなくて、「彩色木彫」だそうである。一般住宅にはあまり好ましくない装飾だろうが、たまの宴会にはこのくらいぶっ飛んでてもよいし、なんなら、ちょっとつつましいくらいな気もする。

遊廓に泊まる (とんぼの本)

遊廓に泊まる (とんぼの本)

 『遊郭に泊まる』という本を持っているが、その「飛田新地「鯛よし百番」全室完全撮影」のページもなかなかのものである。今は、普通の料亭になっていてだれでも利用できるそうなので、チャンスがあれば訪ねてみたい。
 八戸の「新むつ旅館」のY字階段も魅力的。「鯛よし百番」も室内に橋がかかっている。橋とか階段とかが日常から非日常への通い路という感じをさせるんだと思う。

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百段階段

クルド自治区ドホークについて

 高遠菜穂子さんから封筒が届いた。A4用紙で、ドサッ、までいかないけど、バサッくらいはある、イラクホープネットなどのボランティア活動の年次報告みたいなものかしらむ。
 何事かしらと思い出してみると、そういえば、チャリティーのTシャツを一枚買ったのだった。それだけのことで、こういうのを送ってくれるとは律儀なことだ。
 その報告書で、クルド自治区ドホークについて書いている<ドホークの変化>という文章が特に興味深かった。

 もともと70万人ほどの人口だったイラククルド自治区ドホークは、ピーク時で70万人を超える国内避難民を受け入れたそうなのだ。
 「国内避難民」といっても、クルド自治区にしてからが、どうなんだろう、ゲットーとまでいうと違うのかもしれないけれど、クルド人イラク人と平等に扱われてきたかというと違うとおもうのだ。それが、「ヤジディ教徒、モスル市民、クリスチャン、その他の少数派、そしてシリア難民」など、もともとの人口の倍以上の避難民を受け入れてきた。
 ピーク時で70万人というけれど、今でもまだ、帰還は進まず65万人近くがドホークのキャンプ場等で暮らしているそうだ。
 高遠菜穂子さんは、クルド人とも10年以上接してきているそうなのだが、これまでは、クルド人の苦難の歴史から、「あからさまに民族憎悪を語る人に閉口することもしばしばだった」らしいが、大量の避難民、難民が入り、それにつれて、国連や国際NGOが入り、地元の若者たちが現地スタッフとして雇われ、避難民の悲惨な状況を目撃するいっぽうで、人権意識や国際感覚を学んで、ドホークの若者たちの意識が変わっているそうなのだ。
 高遠菜穂子さんと一緒に緊急支援などを行っていたNGOのクルド人スタッフは
「この三年間(イラク第二の都市モスルがISISに支配されていた)は私たちホストコミュニティーにとっても地獄だった。経済制裁にあえぎながら、七十万人以上の難民と避難民を受け入れることは容易ではなかった。けれど、一つ良いものを手に入れたといえる。それはダイバーシティ(多様性)だ。これを真に認め合える共存社会をつくること、それがいま一番やりたいことだ」
と語って、高遠さんを驚かせたそうだ。
 「1945年の日本の空気はこんな感じだったのでしょうか?」と書いている。
 ピースセルプロジェクトというのを始めるそうだ。ドホークから何か新しいことが始まればいいなと思う。
 1945年の日本はどうだったのかわからないけれど、今の日本は「閉塞感」というにはイライラした感じもなく、鬱屈したエネルギーの胎動も感じられない、むしろ「引きこもり感」といったような委縮した空気が淀んでいる気がする。これで「美しい国」だとか「とてつもない国」とか言ってるんだからしらじらしい。
 ときどき、日本はドイツに比べて反省が足りない、なんて言われるが、それはともかく、日本はドイツに比べて、難民の受け入れが足りないのは間違いない。もちろん、難民を多く受け入れれば、軋轢を生むには違いないだろう。しかし、そのかわりに「ダイバーシティ(多様性)というよいものをひとつ手に入れた」と若者が思えるとしたら、その方がずっと喜ばしいことではないだろうか。
 自分の住んでいる町の未来に希望を感じられるドホークの若者と、東京の若者とどちらが幸せなのか、こたえはそう簡単ではないと思う。
 ところで、伊藤めぐみという人が監督した、高遠菜穂子さんのイラク人質事件のその後を撮ったドキュメンタリー映画ファルージャ』はこちらから、有料ではあるが(486円)観られるようだ。私は横浜ブルク13で観たけど衝撃的だった。

 イラクに関しては綿井健陽の『イラク チグリスに浮かぶ平和』もよいドキュメンタリーだった。

『半世界』と、ポツンと一軒家

 阪本順治監督、稲垣吾郎主演の『半世界』は、TOHOシネマズでやってたときから見ようと思っていたのが、タイミングが合わず見逃していたのを、新百合ヶ丘アルテリオ映像館でやりはじめたので、なんとか駆け込んだ。
 予告編を観た時から、たぶんいいんだとあたりを付けていた。今回、本編を見てわかったのだけれど、「はんteかい」としか聞こえないナレーションは予告編だけだったみたい。あのナレーションに、してやられた感じはあった。

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半世界

 阪本順治監督が、小さな町の小さな出来事をたんたんと描くというような作品はあんまりないんだと思う。風吹ジュン主演の『魂萌え!』があるけれど、あれは、桐野夏生の小説が原作だったのに、今回の『半世界』は完全オリジナルの書き下ろし脚本。例えが少し変かもしれないが、個人的には、メジャーリーガーが河川敷でキャッチボールしているところに通りかかったみたいな驚きはあった。けっこうな低予算だと思うのだが、それならそれで、きっちりシナリオを磨き上げてくる。
 それと、主演が稲垣吾郎というキャスティングがすばらしい。佇まいがこんなにしっくりくるのは珍しいと思う。稲垣吾郎は、おなじく元スマップのメンバー、中居正広、草彅剛、香取慎吾にくらべて、そんなにお芝居で評価されてきたわけじゃないと思うのだけれど、今回のは、ほかの人じゃダメだったと思う。
 池脇千鶴、渋川清彦、長谷川博己という主要人物をはじめ、すべてのキャスティングがよくて、シナリオを磨きあげて、このキャスティングを揃えたら、あとは、ポンと手を叩くだけで、するするすると映画が動き出したんじゃないかと錯覚するくらい。

 公開からだいぶたっているので、ネタバレとか心配することもないのだろうけれど、逆にもう内容に関するレビューは出尽くしてるだろうと思うので、気兼ねなく取り留めもないことを書くことにする。

 主人公は、おやじさんがやってた備長炭の窯を引き継いでやっている。奇しくも、こないだ、所さんの「こんなところに一軒家」っていうテレビ番組観てたら、ちょうどこの映画みたいに、山の中で炭焼きをやっている夫婦がでていた。3月10日放送なので、この映画公開より全然あとなんですけど、リアル『半世界』でびっくりしてしまった。視聴率もすごくよかったらしいです。
 阪本順治監督は、『人類資産』で、グローバリズム経済を突き詰めた経験があって、今回の映画は、淡々と、田舎の日常をえがいているようで、その辺の問題意識がきちんと反映されている。「きちんと」というのは、「じつは深いんです」とか「わかる人にはわかるだろうけどさ」とかじゃなく、ちゃんとした遠近法で、正しい距離感で反映されているという意味。
 稲垣吾郎が演じる主人公が、ひさしぶりに帰って来た同級生(長谷川博己)に、炭焼きを手伝ってもらうことになるのだが、「お前、俺を雇うよゆうなんてあるのか」と聞かれると「甘ったれるな、もちろんただ働きだ」と。この「甘ったれるな」は、ほかの場面でも何度か繰り返されて「それ、意味が逆だろっ」と渋川清彦に突っ込まれる。
 これはもちろん幼馴染どうしの軽口でしかないのだが、ただ、この映画全体の主旋律とうまく響きあう印象的なフレーズになっている。「甘ったれる」ということばを、今のわたしたちは「依存する」という意味で使っている。この主人公は、幼馴染という関係に「依存して」ただで手伝ってもらおうとしているわけだから、渋川清彦のいうように「ふつうは逆」なのである。
 しかし、幼馴染に遠慮して依存しあうまいとしている長谷川博己に対して、「甘ったれるな」という主人公の言葉は、この映画の中では、なぜか説得力をもってしまう。長谷川博己の演じるエイすけは、実は、自衛隊時代の部下の自殺について責任を感じて心を病んでいる。
 上司と部下という「縦」の関係に縋り付いていることは「責任感」と呼ばれ、幼馴染という「横」の関係に縋り付いていると「甘ったれ」と呼ばれるのは、じつはそんなに自明なことなんだろうかと、この映画を観ていると考えさせられる。
 江藤淳の『成熟と喪失』の文庫版あとがきに、上野千鶴子が、あまりに急速すぎた近代化は、「親のようにならないこと」が「近代化」であり、社会的成功であるという不幸な状況を日本の家族と社会にもたらしたといったようなことを書いていた。
 スマホでも、PCでも、それどころか、テレビでも、ラジカセでも、流行の服でも、子供の方が親よりくわしい、変化の急速な時代には、「社会」と呼ばれるものの中の地域社会や親族の結びつきはほとんど無化される一方で、貨幣価値だけが「社会」の価値となる。血族や地域から解放された世代には、貨幣価値以外に準拠する価値なんてない。であれば、結婚などという、ふたたび血族の関係に自分を縛り付けることが煩わしくなるのはごくあたりまえだった。いまの人たちはもう結婚どころか恋愛さえ煩わしい。
 高度経済成長で人口が増え続ける時代は、たしかにそれがリアルだったのかもしれない。しかし、今、逆に経済がしぼんでいく時代、貨幣価値は、それほどにリアルなのか?。地域や家族の横のつながりを「甘ったれ」として否定してきた結果、わたしたちは、資本社会に異議申し立てすらできなくなっているのではないか。貨幣価値に自己の価値観を完全にゆだねてしまい、不確かな横の関係を磨き上げることから逃げてきたその態度の方を「甘ったれ」と呼んでいるこの主人公の軽口がじつは正しいのかもしれない。

 ところで、アルテリオ映像館であんなに人がいっぱいだったのは、最近では記憶にない。稲垣吾郎さんの人気なんだと思う。SMAPってやっぱり大きな存在だったんだなと改めて思いました。

tokushu.eiga-log.com


 
 

鎌倉、妙本寺の海棠、瑞泉寺の諸葛菜

 4月6日、鎌倉でお散歩。初夏みたく暖かくなり、半袖のTシャツ1枚という人もちらほら見かけた。
 去年あたりから気に入っているのは妙本寺というお寺。

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妙本寺

 鶴岡八幡宮に比べると人も少ないし、それに海棠の花がきれい。

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妙本寺の海棠

 すこしまえまでは、鎌倉の海棠といえば、海蔵寺か光則寺だったが、このごろは、すこし樹勢が衰えてきたみたいに感じる。こちらの木のほうが盛んのようだ。

 そのあと、瑞泉寺にいった。

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瑞泉寺

 この木漏れ日から日差しの強さを想像していただけるかもしれない。
 
 瑞泉寺はどちらかといえば、桜より梅で有名なんだけれど、桜も少し咲いていて、古い、おそらくは鎌倉石の石段に花びらが散っていた。

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瑞泉寺の石段

 

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瑞泉寺諸葛菜
 
 この紫色の花は「諸葛菜」というのだそうだ。盛りだった。
 今回初めて気が付いたのは、瑞泉寺の夢窓国師の庭は、昭和45年、1970年に発掘されたのだそうだ。それまで埋もれてたんですね。

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瑞泉寺の夢窓国師の庭

 お寺の前にある地図っていうのかが面白い。

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瑞泉寺の案内

 「東 錦屏山(この寺の山号)、南 玉龍井(鎌倉十井と呼ばれた井戸のひとつらしい)、西 客山 富士山、北 主山 天台山(中国じゃないですか?)」
 何なんでしょう?、このアンバランスな感じは。

 昼は、鎌倉駅のすぐそばのJ.S.BURGERS CAFEでエルヴィス・チーズ・バーガーを食いました。

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J.S.Burgers Cafeのエルヴィス・チーズ・バーガー

 具にバナナが入っていて、チーズもソースも甘め。たぶん、晩年のエルヴィスだな。エルヴィス・プレスリーがドーナツの食いすぎで死んだという伝説は何がどうなってるんでしょうね。