ジャンフランコ・ロージ監督の『国境の夜想曲』

 『海は燃えている』で、難民が続々と押し寄せるイタリア最南端のランペドゥーサ島を描いたジャンフランコ・ロージ監督が、シリア、イラクレバノンクルディスタンの国境の夜を淡々と写した。3年間をかけて80時間カメラを回した。3年間で80時間はけして長くない。1日2時間としたら40日で撮れてしまう。『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督との対談がパンフに記載されている中に、自身も語っている。「映画作りにおいて私がいちばん投資しているのは“時間”」だと。
 ジャンフランコ・ロージ監督の映画も、フレデリック・ワイズマン作品と同じく、一切のナレーションがない。そこにある映像がすべてであり、観客はその映像を窓にして、写っていない更に膨大な時間に思いを馳せることになる。
 収容所で息子を亡くした母親の嘆き、国境で監視を続ける女性兵たちの長い夜、一家の暮らしを支えるために、通りかかる猟師を待ち続ける少年のまなざし、ISISを逃れてきた少年たちが教師に語る絵の説明。
 そして、その時間は私たちの時間ともつながっている。そこから逃れてきた難民の人々を『牛久』の入管職員たちがいびり殺している。先進国にそんな国はない。
 日本の子供たちのなりたい職業のランキングが発表された。それによると日本の子供たちがなりたい職業のトップは「会社員」だそうだ。一時期は「大工」だったが、大工の中にも会社員もいれば会社員でわない人もいる。つまり、「会社員」は、解答の意味が違っている。日本の子供たちはもう何もなりたいものがないのだ。
 難民をいびり殺す社会で子供たちが何の夢も持てない社会、それが日本という国だということになるだろう。日本という国が難民みたいなものである。希望のなさでいえば難民に劣るかもしれない。「会社員」になりたい子供たちを産み続ける不気味な国は何のために、誰のために存在しているのかよくわからない。


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東京モーターサイクルショーで賀曽利隆

 東京モーターサイクルショーに行ってきました。
 コロナ禍になってからあんなに混雑してる場所は初めてかも。特に4大メーカーのサイトは入場制限をしているために、そこに並ぶ列はかえって混雑するという。なかなか不自由でした。
 ただ、全てを帳消しにするラッキーな出来事がありました。スズキのサイトに賀曽利隆さんが来てたんです。
 朝、たまたま歯医者の予約があって、その上、ホンダの行列が長すぎて先にスズキに回ったら偶然に出くわした。過去には、東京モーターサイクルショーで風間深志も原田哲也も偶然見ることが出来ました。ビッグネームがしれっといてびっくりするのですが、意外に人が殺到しないのが不思議です。

 やっぱり賀曽利隆さんはスズキなんですね。後ろのバイクはV-strom 650か1000ですけど、賀曽利隆さんの今の愛車はV-strom250だそうです。これも「らしい」選択です。

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賀曽利隆 V-strom

 このバックパックサコッシュ賀曽利隆さんの旅装のすべてだそうです。これも「らしい」。服装は、上下とも風魔プラスワン。これは今はモンベルで作ってないはずなので、世田谷の風魔プラスワンでしょう。懐かしいです。

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賀曽利隆さんの旅装

 手にしているのは、旅の記録の大学ノート。旅は距離だと言ってました。一キロより十キロ、10キロより100キロ、100キロより1000キロ、1000キロより10000キロだそうです。ヒッチハイクとバイクで世界を何周もした人の言葉だけに重みがある。

 しかしながら、私が今回目当てだったのはホンダのCRF250だった。V-strom250は重さが気になるんですよね。ですけど、400と1000しかなかった。去年フルモデルチェンジしたのであるかなぁと思ったのですが。ホンダの今年の推しはHAWK 11とCT125と"DAX" ST 125のようでした。
 特に、アフターパーツのメーカーのサイトを見ていると、CT125が人気みたいでした。

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KIJIMA + CT 125
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CT 125 + ROUGH&ROAD
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CT 125 + TAKEGAWA

 銀シャリの鰻さんがハンターカブを買ってました。なかなか見つからなかったようです。


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 ホンダのオフ車としては400Xが目新しかった。ただ、見た目はヤマハのテネレとともにカワサキのヴェルシスに似てる気がします。OEMかと思ったくらい。

hondago-bikerental.jp

www.yamaha-motor.co.jp

 私は小さめのオフ車しか興味ないので、他には、かつてのADIVAが aideaという日本の法人を作って新たにリスタートしてました。

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AA-1

 ただ、これは電動バイクでした。電動バイク電動アシスト自転車もひとつの潮流だと思います。ヤマハもE01を出してました。

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E01

 一般的なことを言うと、今世の中に溢れているモビリティのすべてが電化したとして、電力が足りると思います?。今でも節電を呼びかけてるのに?。
 電気自動車が一人勝ちする未来が来るとは思えません。その意味では電動自動車より電動バイクの方がまだ現実的なのかもしれません。自動車は水素エンジンの方が実効性があると思います。どちらにしてもインフラの整備とセットに進んでいかなければならないので、政治的なビジョンが必要になるのですが。

 ヤマハでは自転車も展示されてるのがひそかな楽しみです。

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crosscore RC

 317900円ということで、VanMoofと勝負できるのかなという気がします。

www.yamaha-motor.co.jp

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FANTIC e-bike

 IRCがFANTICにタイヤを提供してるみたい。ただ、FANTIC e-bikeの展示されていたのは1446500円。それは、どうなのかなと思います。

 珍しいところでは、ジーンズショップ・マルカワが出店してました。町田に本店があったジーンズショップです。

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ジーンズショップマルカワ

 このセンス嫌いじゃないです。

春めき桜

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一ノ堰ハラネの春めき桜

 河津桜玉縄桜に続き、今週は春めき桜を、足柄のJAかながわ西湘の福沢総合選果場に観に行った。

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JAかながわ西湘福沢総合選果場

 もし京都ならこのプレハブの代わりに古寺名刹が建っているだろう。逆に、富山や信州なら、遠くに立山連峰を望んでいるか、何もないか。それがプレハブなのが神奈川らしくていい。

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春めき桜

 春めき桜は、この近く、狩川沿いに春木径と名づけられた並木道があり、そちらもよく知られている。川べりなので散歩するには向いているが、高低差も湾曲もなく桜が続くだけなので、意外に写真にしづらい。眺めはこの一ノ堰ハラネの方がよい。ちなみに春木径の背景は富士フィルムの工場だ。

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春めき桜

 春めき桜の枝ぶりは特徴的だ。枝がもう少し細ければ枝垂れかねないところを、途中で踏ん張ってなんとか頭をもたげたというようにウェーブしている。そんな枝の先に綿菓子のようにかたまって花が咲いている。

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春めき桜

 春めき桜は、桜にしては香りが高いことでも知られている。急斜面で人が入らないせいもあり、鳥たちが盛んに蜜を吸っていた。
 

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春めき桜

大船フラワーセンターの玉縄桜

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玉縄

 大船フラワーセンターに桜を観に行った。実は、その後、ダミアン・ハーストの桜に回った。
 ここの築山にあったはずの啓翁桜を観に行ったつもりだったが、それはなくなって、代わりに玉縄桜てふ、聞きなれない桜が咲いていた。
 フラワーセンターの説明によると、染井吉野の実生の株を選抜したということだった。染井吉野の実生なら、その株は染井吉野になりそうなのに、こういう謎の早咲き桜ができた。
 染井吉野は謎の桜で江戸時代後期に出現して以来、ずっと挿し木で増やしているクローンの桜で、そのせいか寿命が短い。60年ほどで枯れて死ぬ。コピーを繰り返すたびにどんどん生命力は落ちているはずで、年寄りが「昔の桜はもっと色が濃かった」などというのもあながちウソではないだろう。10代のタレントが桜の色を「白い」と言ってたのを聞いたことがある。桜の色をピンクだと思っているのは、こと染井吉野に関しては、思い込みみたいなものだろう。
 浮世絵に描かれている桜は、今私たちが目にする染井吉野よりはるかに色が濃い。あれは誇張ではなく、デビュー当時はあの色だったのだろう。だからこそウケたのだろう。オオシマザクラエドヒガンザクラの掛け合わせというのが本当ならば、オオシマザクラの白さに先祖帰りしているのかもしれない。
 鎌倉の若宮大路の段葛の桜並木が植え替えられたとき、全て染井吉野にしたのはいかにも芸がなかった。そもそも桜が植えられたのは大正時代だそうだが、それにしても、鎌倉時代の遺構なのだから、せめてヤマザクラとか時代考証から文句が出ない桜にしてほしかった。

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オカメザクラ
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サンシュユ
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ウメ「守の関」

 大船といえばこちらなんだけれど、桜の季節だとそんなに違和感がなくなる。

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大船観音寺

『燃えよ剣』に出てたフランス人

 原田眞人監督の『燃えよ剣』は、岡田准一土方歳三五稜郭でフランス人に顛末を語るていをとっている。
 あのフランス人の写真があったよなぁと思いながら、なかなか見つからずに取り紛れてしまったが、ひょんなことから出てきたので、紹介したい。「写楽」という雑誌に連載されていた鈴木明の「ホトガラヒー探検」がそれで、書籍化はされていないみたい。
 ジュール・ブリュネというフランス人で、フランス本国の帰国指示に背いてまで、土方歳三榎本武揚らと行動を共にした。
 歴史は後から考えると必然に見えてしまうが、当時の徳川方の軍事顧問だったフランス軍人の中には、徳川慶喜の行動がなんとも理不尽に見えた人もいたということになる。
 徳川慶喜は、水戸藩出身の初めての将軍で、内心は反幕府だったということはあったかもしれなかった。薩長藩閥政府がその後わずか80年程度で国家主権を失った結末を思うと、あのとき、慶喜でなければどうなっていたかなと想像してみたくなる。
 写真の下のリンクで写真が拡大するので、その方が読みやすくなるかも。

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ダミアン・ハースト 桜 観ました

 国立新美術館の会場奥で見られるこのインタビューは示唆に富んで面白い。YouTubeにもあるので紹介したい。字幕が出ない場合、画面右上の「cc」というとこを押してください。


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 まずは現代の芸術家にとって絵を描く「リスク」について。
 2012年に東京都現代美術館で靉嘔の大回顧展があった。「いつ虹を始めたのかと問われることがあるが、今ではそれをはっきりと思い出すことができる・・・・」と始まる、すこし長めの文章が掲示されていた。1958年の渡米後、‘線やフォルムは過去の巨匠たちの焼き直しにしかならない’、‘残されているのは色だけだが、ピカソのように青の時代、桃色の時代、白の時代と、一つずつの色を追求していては、何度生まれ変わっても完成に至らない。’用いるべきはすべての色でなければならない。しかも、光のスペクトラムどおりの順番でなければならない’と、赤から紫へ、キャンバスを埋めていった。
 そして虹を描いたあと、「これでもう絵を描かなくてもいい」と思った。現代の芸術家にのしかかるオリジナリティの抑圧がよくわかる。
 ダ・ヴィンチの時代には誰もオリジナリティに気をかける必要がなかった。彼らは工房でひたすら衣の襞をデッサンした。彼らはアーティザンとして、画工として、傑出することで、アーティストになった。ルーベンスの絵画を見ると、工房の画工たちが描いた絵の一部、主人公の顔だけをルーベンスが描いたものがある。その顔だけが傑出している。
 アーティザンとアーティストを分けているのは、そうした力量だけであった。アーティストとアーティザンの違いは、鯨とイルカの違いにすぎなかった。言い換えれば、違わないのだ。ちなみに、山下達郎に「ARTISAN」というアルバムがある。これは音楽家が「アーティスト」と名乗ることに対する抵抗だというニュアンスのことを本人がラジオで語っていた。
 画工が画家に、アーティザンがアーティストにならざるえなくなったのは、写真が発明され、時を同じくして日本の浮世絵を発見したからだ。日本画の世界では、浮世絵は主要ではないが、西洋の画家たちが浮世絵に魅了されたのは、浮世絵のモチーフが彼らと同じだったからだろう。ファッション、演劇、都市生活、浮世絵は彼らと同じモチーフをかれらの絵とはまるで違う技法で生き生きと描き出している。
 写真が発達すれば画家の仕事はなくなると発言していたジャン=レオン・ジェロームが、印象派の絵をルーブルに所蔵することに反対したのは示唆的だ。印象派の画家たちは絵が写真ではないと気づいた最初の人たちだった。
 では、絵とは何か?。印象派以降の画家たちは、絵を描くだけでなく、絵とは何かという問いを抱えることになった。言い換えれば、オリジナリティを求められるようになった。そして、現代芸術家は、絵が描けなくなった。絵を描くことが「古くさく」感じられた。絵を描くなんてそんなオリジナリティのないことは。しかし、上のインタビューでダミアン・ハーストが答えているように、オリジナリティなどというものはそもそもない。「こんな多面的な世界で誰もオリジナルになれない。」
 絵とは何かという問いは、アカデミズムに対するカウンターとして存在しただけだった。その問いかけに答えはない。それに答えてしまうと、アカデミズムに対して別のアカデミズムを打ち立てるだけになり、つまりはまたアカデミズムに取り込まれるだけなのである。
 現代芸術家が絵を描かないのは、絵を描く勇気がないからだ。アカデミズムというスタンダードが瓦解したあと、0から1に踏み出しても、また歴史をなぞることになるだけな気がして踏み出すことができなかった。生きて死ぬより生きない方がマシに思えるのだ。
 その結果として彼らに残ったのは、マルセル・デュシャンの便器だけだった。あれからもう100年がすぎている。100年もただひとつの便器から逃れられない。コンセプトだけがあってモノがないより、モノだけがあってコンセプトがない方がはるかにいい。コンセプトしかないは、何もないのと同じ。何もないより悪いかもしれない。夏休みの終わりに宿題をしていない小学生と同じだ。しかし、モノしかないは、それ自体がすでにコンセプトでもあり、しかも、さらに多くのコンセプトを生産しつづける。
 こうしてダミアン・ハーストは0から1に踏み出したわけ。
 インタビューアーのティム・マーローが「アートの無限の可能性にうんざりすることはないか」と尋ねている。ダミアン・ハーストは、「若い頃は何を描けばいいのかまるでわからなかった。無限の可能性が怖くて、考えるほど描けなくなった」と。
 岡本太郎は「芸術家はいつも美に退屈している」と書いているし、猪熊弦一郎は「絵を描くのに必要なのは勇気だ」と書いていた。どんな絵でも、それを描きはじめるには最大の勇気を必要とするが、描きあげたものは常に最善の美には足らない。
 ティム・マーローは恐ろしいことを言っている。ゴッホについて、傍目に可能性に見えてもそれは不可避性のはじまりでしかないと。
 生きていることは死につつあることなのである。確かに。生まれてこなければ死なない。だから、コンセプトのまま何も生まなければ何も古びないと思ったのがコンセプチュアル・アートだったのである。正しい。だけど、正しさが何だって話。
 コンセプチュアル・アートは美を否定した。美がアートのテーマである必要はない。美について語ることは神について語るのに似ている。私はどうひっくり返っても仏教徒でしかないが、それでも神の存在を否定も肯定もできない。神が存在しようがしまいが仏教には何の関係もない。だから、原理主義者にとってより、美について考えることは神について考えることに似ている。美が絶対でも必然でもないとして、そこに踏み込まない者を賢明だと讃える気にはならない。
 ティム・マーローの言うように、ダミアン・ハーストの桜には中心がない。

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ダミアン・ハースト《桜》部分
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ダミアン・ハースト《桜》部分

 こうして切り取っても、部分と全体に価値の差がない。マチエールに油絵の喜びが満ち溢れている。絵とは何かという問いを追い越して美が飛び去っていく。
 

『香川1区』

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大島新監督

 『なぜ君は総理大臣になれないのか』の続編で、去年の総選挙、小川淳也の選挙区、香川1区の選挙戦をレポートした。
 『なぜ君は総理大臣になれないのか』公開の翌年ということもあり、同じ選挙区で長年競っている平井卓也デジタル庁担当大臣の不適切発言もあり、小川淳也氏に有利に運ぶかという時に、日本維新の会が候補を立てることになり・・・。といったことでなかなか熱い選挙戦になった。
 香川1区の選挙戦を17年間、熱くしてきたのは、何と言っても小川淳也個人なのであり、それは、日本の選挙制度のもとでも有権者の関心を政治に向けることができる個人がいることに驚いたが、とは言っても、システムに改善すべき点がないわけがない。
 今回の映画のメインテーマではないが、カメラが自民党の組織選挙の現場を捉えていたのには驚いた。期日前投票の投票所のすぐ横のビルに、自民党が部屋を押さえていて、投票した人に、個人と所属会社の名を書かせているのだ。
 選挙権は他のすべての権利と同じく個人の権利なんだが、あのビルに次から次に吸い込まれていった人たちは、自分の選挙権を会社に明け渡しているわけだ。民主主義国家の国民としての権利を、よりによってたかが会社に譲り渡して平気でいる、それは奴隷じゃん。それが平気な人たちが民主主義国家を築けるわけない。
 マイケル・ムーア監督の『華氏119』に出てくるアレクサンドリア・オカシオ・コルテスの選挙戦と比べてごらんなさいよ。日本の選挙が歪んでいるのがよく分かる。
 今回の映画で面白かったのは、小川淳也さん、平井卓也さん、大島新監督、三者三様に感情的になるシーンがあるところ。フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーには絶対にありえない。たぶん、マイケル・ムーアでもないかも。
 小川淳也さんの弱いところは、奇しくも対立候補が指摘するとおり、野党の弱さと言い換えることができるだろう。とにかく、ころころ政党が変わりすぎ。これでは党を支える一般党員がたまったものではない。自民党公明党の組織選挙はひどいが、逆に、旧民主党議員は組織を蔑ろにしすぎている。これでは、選挙の度ごとにいちから始めているようなものだ。その意味では、あれこれ批判があっても、日本維新の会の党運営には見習うべきところがあると思う。今回の選挙でも、負けるのは覚悟の上で橋頭堡を確保したわけ。したたか。なので、自民党、その他の党、両方への批判票が維新に流れがち。その構造は理解すべきだろう。
 選挙戦が盛り上がることは民主主義にとって絶対に必要なことだと今のプーチンをみているとそう思う。ソ連崩壊後のロシアをなんとか立て直した功績については議論のないところだと思うのだけれども、今回のウクライナ侵攻をロシア国民が支持しているとは、ちょっと思えない。
 にもかかわらず、こういうことになってしまった。今のロシアを見ていて、昭和初期の日本に思いを巡らさない人はいないだろう。当時、満州とか上海で、軍が在留邦人を守るためとか、満州鉄道の護衛のためとか、いろいろごたくを並べたてて好き勝手していたのを、海外の人がどう見ていたのか、身を持って追体験させられるようだ。さぞかし軽蔑し、イライラさせられたことだろう。
 ロシアと日本が似ているところは、権力に対して一般人が弱いところだ。それは権力が集中していることに問題がある。「三権分立」というとどこかぼんやりする。その言葉自体が何かはぐらかしているような印象さえ受ける。「三権分立」は英語ではシンプルに「separation of powers」というようだ。英語の方が日本語より分かりやすいってどうなんだろうと思うが、英語の方が権力を分ける感じがはっきりする。しかも3つに限らない。英語の言い方だと、例えば、プロ野球コミッショナーだろうが、労働組合の長だろうが、有権者に選出された立場であれば、その有権者に責任を持つという意味で、大統領や総理大臣と同等の権力を持ちうるわけである。
 そういう民主主義の基本的な感覚を日本人は持っていない。で、三原じゅん子が国会で「ぶれいもの!」とか時代劇のお局さんみたいな発言をしても平気で国会議員を続けられる。
 「separation of powers」を実現するには結局のところ選挙によるしかない。その意味でもこの『香川1区』の熱い選挙戦はヒントになりうると思う。
 ただ、映画として焦点がぶれるので仕方なかったが、平井卓也氏のデジタル相辞任をめぐる内情については、もう少し複雑な事情があったと思われる。「干す」だの「脅す」だのという発言だけでなく、そういう発想でさえ大臣にあるまじきことだけれども、ただ、それが官僚からリークされるについては、官僚と企業のズブズブの関係がぷんぷん匂う。その辺のところ、平井卓也氏とのインタビューで切り込めれば、もう少し厚みを増したかもしれない。
 小川淳也さんは、初当選の頃に言っていた「50歳で引退」にこだわることはないと思う。芸能界で言えばバナナマンと同期なので。