ブリューゲル版画の世界

楽しみにしていたブリューゲルの版画展。
正直言って、ヨーロッパという、ユーラシア大陸の西側に突き出た半島に住む人々の考え方には、わたしには理解できないところがある。
で、それが面白くてしかたない。
たとえば、今回の展覧会のポスターに使われている
<聖アントニウスの誘惑>


題名からわかるように、求道者を悩ます煩悩や誘惑を描いた絵で、似たようなテーマは東洋にもある。
静嘉堂美術館で観た、牧谿の<羅漢図>は、これから長い夜を迎えようとする断崖の上で、ひとり座禅を組む羅漢の腰に、大蛇が巻きつこうとする、鬼気迫る絵だった。

しかし、このブリューゲルの<聖アントニウスの誘惑>は、絵の右下隅にいるのが聖アントニウスなんだけど、後ろのやつら、誘惑してるか?
完全に笑かしにかかってるやん?
七つの罪源なんかも、そんな深刻な感じはしない。チンコもマンコもゲロもウンコもそのへんに描きちらかしてるし、ワケのわからない怪物がいっぱいいるし、むしろユーモラスで楽しい。北斎国芳の妖怪を思い起こさせる。
これらの絵は、たぶん、当時の教会や僧侶に対する諷刺画として楽しまれたものなのだろう。はっきりウケを狙ってる。
当時はたぶん識字率も低かったのだろうと思うので、これらの絵には、本来言葉が担うべき要素がたくさん入り込んでいるように思う。
私たちには漢字があるので、文字が図像的だが、欧州の文字は音符に過ぎないので、絵が図像的になるのかも。たとえば、ミレーの<晩鐘>の農婦のスカートの色がそれぞれ意味を持っているといったような。
ほとんどの版画はブリューゲルの肉筆を下絵に職人が彫っているものなのだけれど、一点だけ現存するという、ブリューゲル自身が彫ったエッチングがあった。
<野うさぎ狩りのある風景>
その絵の前では他の絵とはまるで違う部分を刺激される。
線がはっきりと作家の個性を主張している。
ブリューゲルの線の個性と、職人たちの線の無名性が、同じ重さで並んでいるのを見ると、大げさに言えば、芸術の意味みたいなことも考えさせられた。
職人たちの線は、芸術よりずっと民藝に近いのかもしれないけれど、そこにも間違いなく美がある。