「グラッフリーター刀牙」

knockeye2012-07-16

 この日はわたしもひとなみに三連休だったので、どうしようかとおもったけど、あのままむざむざ背中をみせるのも悔しい気がして、「グラッフリーター刀牙」にリベンジ。
 この映画は、スカイツリーを最初にフィーチャーした映画なのかも。ただし、スカイツリーという名称は使わせてもらえなかったみたいで、セリフでは
「あんなのが建っちゃう時代なんだから・・・」
とか
「やっぱりきれいねー」
とか、なんか、それとない言い回し。
 でも、終わりの方でけっこうな使われ方をしているのだけれど、そこは寛大な態度をとっていただけたようだ。
 この映画は、「ラム・ダイアリー」以上にどうでもいい感じで観に来ているのだけれど、あれに負けないくらい好き放題なのは、完全なフィクションだから分がいいとして、快作「電人ザボーガー」にも劣らない振り幅の広さで、斉藤由貴津田寛治、ケンドー・コバヤシが、仕事をわきまえているというか、脚本を読み込んでるっていうか、それをいうなら、渡辺いっけい、渡辺哲の演技派の役者さんたちはもちろん、グラビアアイドルの吉木りさまでもが、世界観を理解して芝居しているのが、マンガをコンテキストにしたこういうドラマの裾野のひろがりというか、ある世代以降の共有感みたいなものは、しっかりしているものだなと思った。
 つまりは、古くは、ウルトラマンとか、巨人の星とか、マッハGoGoGo!とか、突っ込もうと思えば山のごとくつっこめるんだけど、そこは、お約束として飲み込んで、楽しむことのできる感覚は、結構広い世代にわたって共有してるんだなぁと思ったわけだった。
 吉木りさの、現実離れしたナイスボディーを、自分で対象化して笑いにつなげてるみたいなところは、意外に高度な処理なんじゃないかとも思えたし、いっぽうで、今のこの世代のタレントなら、これくらいのことはできる人も多いのかなとも思った。ケンドー・コバヤシの、あれはアドリブだと思うんだけれど、きちんと受けてた。よく笑わなかったな。まあ、おいしい役どころではあった。
 シナリオは、すでに書いたとおり、ツッコミどころ満載なんだけれど、それはいいんです。客が引かずに突っ込んでれば、それでシナリオの勝ちなんだし、わたしは、グラップラー刃牙を知らないので、知っている人ならさらに楽しいのかもしれない。でも、観た感じは、そういうパロディー方向を目指してない気がした。
 通奏低音としては哀愁感が漂っているように思えたのは、スカイツリーの下町というイメージが、「三丁目の夕日」の東京タワーの下町と、時代をはさんでミラーイメージのように見えたせいかもしれない。
 この藤原健一という監督は、けっこう津田寛治と一緒に仕事をしているみたいだけど、津田寛治という役者は映画館で観る値打ちがあるわ。毎回そう思う。でも、今回の作品に関していうと、斉藤由貴というキャスティングを発見した時点で、勝ってたような気がする。
 ところで、この話題にふれざるえないのだけれど、渋谷にも脱原発のデモが行進していました。知らなかったんだけれど、代々木公園で最大規模の集会があったそうですね。大江健三郎とか坂本龍一が来ていたとか。
 ただ、渋谷で見かけたかぎりでは、「社民党」とか「○○労連」とかの幟をかかげてシュプレヒコールを繰り返すリズム感は、旧来型の動員デモかなと思いました。三連休ということもあり。
 たとえ、規模が大きくても、主張がはっきりしていても、有名人が呼び掛けたものでも、これは、あんまりどうってことない。
 金曜日の夕方に、官邸のまわりになんとなく人が集まっている、あっちの方がたぶん重要だと思う。
 さて、話はまた戻って、渋谷から六本木ヒルズに移動して、森美術館の「アラブ・エクスプレス展」。こちらもわりに映像作品が多くて目につらかった。そして、夏場の美術館の常として、外気との寒暖差がつらかった。ただ、出展されている作品はどれも刺激的だった。
 エジプトの女性作家、アマール・ケナーウィの<羊たちの沈黙>という映像作品は、この女性が先導して、労働者階級の人たちを四つん這いで町中を歩かせるパフォーマンスの記録。
 この展覧会は撮影可だったので写真を撮ってきた。

 その彼女のパフォーマンスに対して、いろいろなところで、一般の人たちから論争をふっかけられる。
 こうして彼女のパフォーマンスは、無関係な人たちを巻き込んでいく。非難があり、批判があり、意見がたたかわされる。
 これを観ていて、私の頭に真っ先に浮かんだことは、「渋谷のデモは、ありゃやっぱりダメだ」ということだった。「脱原発どうたら、子供たちの未来どうたら、わたしたちは正しいことを叫んでます、あなたたちみたいにだまってません、でも、声かけないで、スケジュールが決まってるから、邪魔しないで、正しいことしてるんだから」と、まぁ、こういう態度と考えて大きな間違いはないだろう。これでは、その場の人たちを巻き込んでいくなにものもない。
 デモにもパフォーマンスとしてのコンセプトとアイデアが、当然、必要だということ。そうでなければ、オキュパイ・ウォールストリートのデモのように、尻すぼみになるだけだろう。
 ひろゆきが、本気で脱原発を考えるなら、次の選挙で、社民党共産党の候補者を大量当選させればいいという提案をしていた。あまり、現実味がないと思うが、デモよりはましなのかもしれない。
 まねしてというわけではないが、私としてもひとつ提案させてもらえれば、デモに集まっている人17万人のうち、持ち家の人が全員ソーラーパネルを設置すれば、それは脱原発の大きなうねりになりうると思う。個人個人はそんなに高い金はいらない。8万円で設置できるDMMソーラーなどもある。カネが動く方向に世の中は動くから、世の中を動かすにはカネを動かさなければならない。
 それとも、デモには参加するけど、カネは出したくない?