まだ月曜日の続き。森美術館のアラブ・エクスプレス展についてもうすこし。
アラブの現代美術というくくりで紹介されている今回の展覧会だったが、全体として、知的ななかにも、どこか諧謔味、皮肉、おかしみを感じさせる作品が多かったように思う。
たとえば、アーデル・アービディーンというひとの<アイム・ソーリー>
なんか、大竹伸朗が、またどこかで拾ってきたネオンみたいだけど、そうではなく、この作家がアメリカを旅したとき、あまりにも多くのアメリカ人からこう言われたことからインスピレーションを得たのだそうだ。彼はイラク人なので、その‘I’m sorry’がイラク戦争についていわれているのはまちがいないのだけれど、ただ何がどう‘I’m sorry’なのか、言われている当人としてもまったく不思議だったそうだ。
しかし、この話、かつてアメリカと戦火を交えた国の人間としては、なにかしら考えさせられる。太平洋戦争当時、日本人にたいして‘I’m sorry’と思っていたアメリカ人は皆無だったろうことは、想像してみるまでもない。しかし、ベトナム戦争のころ、一般のアメリカ人はベトナムの人にたいしてどう感じていたかになると、すこし曖昧になってくる。そして、ブッシュのイラクになると、多くのアメリカ人が‘I’m sorry’と口に出して言っているというのは、たしかにちょっとした驚き。
そして、この‘I’m sorry’ネオンのよこに、‘I’m sorry’キャンディーがおいてあって、オーディエンスにひとつずつただで配っていた。
さらに、このキャンディー、ミュージアムショップで売られていた。
会場にはアメリカ人とおぼしきひとたちもちらほら見かけたので、おもわず反応を窺ってしまった。
で、思ったのだけれど、どのような反応を示すにしろ、これはやっぱり、弾劾でも、批判でも、告発でもなく、おそらく皮肉ですらなく、諧謔としかいいようがないかと。こうしてアラブ社会から非アラブ社会へ、なにかを訴えようとする時、意図してというよりも、自然に、もっとも核心の部分を避けてしまうので、それがおかしみになるのだと思う。
フセインとブッシュのどちらを選ぶかという問いは、現実にイラクの人たちに突きつけられた問いだが、こう書けばわかるとおり、その問い自体が悪い冗談のようなものである。
アラブ・エクスプレス展目当てだったのだけれど、森アーツセンターギャラリーで、大英博物館古代エジプト展がやっていたので、共通券を買った。
ほんもののミイラが無造作に(と、感じるほど)何体も置いてあったが、それよりも、今回の展示の目玉は、全長37m、展覧会のサイトからコピペすると
『死者の書』コレクションって、と思わず突っ込んでしまうわけだが、
『死者の書』は19世紀のエジプト学者が命名したもので、実際には「日のもとに出現すること(の呪文)(ペレト・エム・ヘルウ)」と呼ばれていました。
と、すかさずフォローがはいる。
古代エジプト人にとって、現世は仮の世界であり、来世への準備期間であるとみなされ、埋葬のための準備がなされました。また、生前の行為によって、死者の判定が行われました。その結果、死者は、死後に再生・復活し、永遠の生命を得るものと信じられていました。
このエジプトの死生観は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の母胎なんだろうと思っている。
キリスト教徒は十字をきりながら「アーメン」というのだけれど、あれは、エジプトのアメン神のことではないのか。イスラム教のアッラーは、エジプトの太陽神ラーと関係ないのだろうか。
アラブ・エクスプレス展と続けて観たために、体が冷え切っていたし、人が多いしでざっと観ただけで退散したが、全長37mの死者の書はさすがに迫力があった。ただ、この信仰は今は失われてしまっているのだろうが、先般、奈良で観た玄奘三蔵の一切経は、いまでもわたしたちの信仰の源なのである。
わたしたちの信仰をたぐっていくと、玄奘三蔵へ、鳩摩羅什へ、釈迦へと遡っていけるそのことは、東アジアの文化を根底でつなぎ合わせていると思うが、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教を外から見ていると、あれは近親憎悪のように思えてならない。
それをいうと、たとえば、わたしのような真宗門徒が日蓮宗にちょっといらっとするのと似ているのかもしれない。それにしても、さすがに、殺し合わなくてもよさそうなものだ。それほど信仰に篤いとは思えないのだけれど。
そうね、これについて書いていると、こうして笑いにまぎれてしまう。確かに。‘I’m sorry’か。