『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』

 横浜ブルク13で『コンセント/同意』を観た翌日、目黒シネマで、ニナ・メンケスのこの映画を観た。この2本を続けて観たのはほんとによい体験になった。
 視覚言語が私たちの世界の認識にとっていかに支配的なのかを具体的な作例を交えながら、ニナ・メンケス自身が講義する。
 映画に性的な表現があるとか、性差別的でよろしくないとか、そういううんざりするような話ではなく(ニナ・メンケスも「誰かがそういう表現をしたいならそれでいい。そんなことを言いたいのではない」と釘を刺していた)、カメラを向けるその背後の視線そのものにすでに、主体=男性、客体=女性の無意識の意味づけがなされている。これに気付かされたのが刺激的だった。
 この無意識の差別には、逆に、男女の差がない。男であっても女であっても、既存の映画言語の中では女を客体として捉えてしまう。男の視線は、女の性幻想の中でも主体なのである。
 つまり、女は性行為の客体として自己認識している。男に見られ、男を誘い、男に抱かれるのが、女の性幻想の基本ではないだろうか。
 実際の性行為で男が受け身である場合は珍しくない。男が下である場合は単にバリエーションにすぎない。その場合でさえ視覚においては、男が見て、女は見られていることを意識していないだろうか。
 性犯罪者の言い訳としての定番のセリフとして「相手が誘ったんだ」というのがある。これを言ってる当人の意識の中で「誘う」を文字通りの口頭言語として捉えている場合はほとんどない。つまり、本当に「セックスしましょうよ」と言葉で誘ったのなら言い訳する必要すらないから、「相手が誘った」という言い訳は、セクシーな服を着ていたとか、意味ありげなそぶりをしたとかの視覚言語を指している。
 これが言い訳にならないのは、この場合視覚言語としての主体は見る側だからだ。「私は見たのではない。見せられたんだ」と言いたいわけだが、強制的に、例えば椅子に縛り付けて、まぶたが閉じないようにテープでも貼って見せたとしても、視覚言語の主体はやはり見る側なのだ。
 映画を見る時、私たちは映画作家が見せているものを見ていると思っていたけれど、無意識に、ということは、見せられるよりはるかに強い影響力で、私たちは視覚を共有している。
 ローラ・マルヴィが1975年に指摘した「MAN GAZE(男の眼差し)」を私たちは無意識に受け入れて、そして、その視覚言語で世界を解釈する。プルーストが書いたように、ルノワールが現れると、パリの女たちはルノワールの女たちになるのだ。
 ニナ・メンケスが取り上げた例で『スキャンダル』のワンシーンがわかりやすかった。マーゴット・ロビーが演じる新人女子アナが、FOX TVのCEOのロジャー・エイルズにスカートを捲り上げるように要求される。
 文脈から考えればこのシーンで客体になるべきなのは、醜悪な要求をするCEOのロジャー・エイルズのはずだ。が、カメラはスカートを捲り上げるマーゴット・ロビーに向けられる。カメラの視点はロジャー・エイルズの側に据えられている。
 観客も作り手も、「男=主体」、「女=客体」という視覚言語の文法を無意識に信じてしまっている。この「ブレインウォッシュ」の影響が絶大であることは今となっては認めざるえない。
 というのも、日本のアニメを中心とする子供向けエンターテイメントの世界に及ぼした影響について、もはや懐疑的ではいられないからだ。
 『ゴジラ-1.0』が海外ででヒットするのはわかる。いい映画だから。しかし、その直後に封切られた『ゴジラ×コング 新たなる帝国』も結局ヒットする。なんで?。山﨑貴のあの良質なゴジラを見た後で、なんであんな怪獣大決戦みたいなものを・・・と思いつつ納得せざるえないのは、子供の頃、あの怪獣大決戦的なゴジラを見た海外の人たちが今クリエイターの最前線にいるのだ。彼らは初代ゴジラではなく怪獣大決戦のゴジラを愛しているのだ。
 昔、世界中にばら撒かれた日本のアニメの視覚言語が、世界の多数の人たちをブレインウォッシュした結果を私たちは今見ている。
 この事実が否定できない以上、ハリウッド映画が世界中にばら撒いた「レイプカルチャー」の影響も否定できない。男は巨乳が好きと思い込んでいる女と女は暴力的な男が好きと思い込んでいる男をハリウッドが量産した、というよりも、そのような世界観に抗えない、無意識下の世界観を植え付けられてしまっている。
 ヒッチコック、スコセッシ、タランティーノといった巨匠の作品もこのくびきを逃れることはできていない。
 ただ、私がひとつ疑問に思ったのは、こうした「MAN GAZE」な視覚言語ははたして映画発祥なのだろうかってこと。
 というのは、少し歴史を遡ると日本には江戸っ子って文化があった。三田村鳶魚永井荷風か忘れたが、多分、三田村鳶魚だと思う。なんか上方の夫婦が仲睦まじく、人前でベタベタしてるのを江戸っ子はバカにしたらしく、女房を殴ったりするのを、旦那の方ではなく、奥さんの方が自慢したそうだ。旦那の方が、女房を殴るのを自慢するのは、それはダサいのはわかる。しかし、またうちの人に殴られたって嬉しがってる感じは、ほんとかよと思ってたら、生粋の江戸っ子の山田邦子が、若い頃にそれを匂わせることをテレビで言ってるのを聞いて、どうもほんとらしいと思った。彼女が今もそうかどうかわからないんだが、少なくともそういう価値観が絵空事ではないことは確かめられた。
 教師の体罰をなつかしがる一群も未だにいるらしいから別に驚くほどのことではない。
 もっと遡れば、平安時代の女性は御簾のうちにかくれて姿を見せなかった。その頃は、見ること自体がすでに性行為だった。
 「あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」
 この時にすでに男は女を見、女は男に見られていた。
 そもそも聖母マリヤの処女性がででっち上げられた時点で、男=主体、女=客体の構図が定着していたのではないか。映画は実は世界を写しただけにすぎないのではないか。
 男が見ることを欲望し、女が見られることに快楽を感じないならアイドル文化なんて存在しないはずなのだ。
 レイプカルチャーはともかく「MAN GAZE」の世界観は、映画にとどまらずもっと根深いのではないかと思えた。

ninamenkesfilmfes.jp