『めくらやなぎと眠る女』字幕版と吹替版 ネタバレ

 字幕版と吹替版、両方観たけど、吹替版の方をお勧めします。
 ちなみに字幕版もよかったからこそ吹替版も観てるわけで、そこは誤解なきように。ただ、日本語のネイティブなら日本語吹替版にお得感がある。
 実写映画だとまず字幕で観るんだけど、それは、吹替だと音響効果とセリフのバランスがどうしてもおかしくなると思うので。
 具体的にいうと『アポロ13』の最後にトム・ハンクスの声が聞こえるところとか、テレビでたまたま吹替版を観たら鮮明に聞こえてどっちらけでした。
 なのでまあ普段は吹替版は観ないのですが、アニメはそもそもアフレコなんだし、それにこの映画の原作は村上春樹なので登場人物は日本人だし、何より吹替版のためにわざわざ深田晃司監督に演出を任せたってことなので。
 そして声優陣が豪華。磯村勇斗塚本晋也古舘寛治、木竜麻生、柄本明平田満、内田慈。
 特に、個人的な感想としては、かえるくんは圧倒的に吹替版の古舘寛治がよかった。これは、英語版の声優さんがどうこうではなく、他の声優のキャストは後からウェブで知って「ああ柄本明だったんだ」とかなんだけど、カエルくんだけは映画を観てるときから古舘寛治とわかった。自分にはその方がよかった。
 カエルくんは原作でも印象的でありながら、村上春樹の言葉のマジックに支えられてるキャラクターだと思う。落語に出てくるトラとかイノシシみたいに、リアルな動物というよりむしろ噺家の語り口にだけ存在する何か。ヴィジュアルよりも言葉としての存在。だからこそ「蛙」ではなく「カエルくん」なわけで、小説なら「カエルくん」のイメージは「片桐」のなかにだけあればいい。
 しかし、アニメだと「カエルくん」のイメージを作り出さなければならない。自称「カエルくん」なので、実はウサギでもカッパでもよかったはずで、今作が「カエルくん」のイメージを「蛙」にしたのはオリジナルな解釈にすぎない。そんな本質的なイメージの頼りなさを、古舘寛治のパブリックイメージが補完してくれている気がした。
 映画版『ドライブ・マイ・カー』もそうだったけれど、村上春樹作品の断片的イメージをうまく切り貼りして、原作小説よりかえって村上春樹っぽい世界観を表現できている。思い返してみると、村上春樹作品の持っている独特の匂いは、存在感よりは不在感(これ誰かが言っていたかもしれない)なのである。スパゲッティを茹でている間に女房が失踪を告げる電話をかけてくる、みたいな。だから、原作の断片を切り貼りしていっても原作の空気が損なわれないんだろうと思う、良くも悪くも。
 オウム事件阪神淡路地震の1995年に村上春樹の時代は終わった、とか、大雑把な歴史観を目にすることもあるが、確かに、何もしない村上春樹の主人公たちに突きつけられた最後通告の感が、オウム事件にはあったかもしれない。
 村上春樹の主人公たちは結局何もしない。片桐は結局カエルくんとの約束を守らない。が、カエルくんはあなたは戦ったといってくれる。まるで、戦地に赴いても戦闘に参加しない自衛隊みたい。
 小村(明らかに村上春樹に似せてる)は、結局シマオとセックスしない。あなたは空気みたいと言われて女房に捨てられる。
 この映画では失踪した嫁さんキョウコのその後についても描いているのが、村上春樹らしくないとも言える。日本の近代小説について、丸谷才一だったかうろ覚えだが、西洋文学の「神とは何か」という問いが、キリスト教という共通項のない日本では「女とは何か」という問いに変わったと書いていた記憶がある。
 これはもちろんキリスト教文化コンプレックスと縁が切れてるからこそできる発言ではある。村上隆もののけのところでも書いたけど、加藤周一俵屋宗達の雷神の腕が「醜い」と言ってたので、今では、目がどうかしてるのかと言いたくなるが、これはしかし、近代って時代が人々にかけた魔法のフィルターで、ある意味では靖國でさえキリスト教コンプレックスが生んだとも言える。
 村上春樹の主人公たちは、マッチョイズム以後の世界をどう生きていいのかわからず立ち尽くしているように見える。「神とは何か」という問いが、「女とは何か」という問いに変わるのは、キリスト教のあからさまな人間中心主義とマッチョイズムが、非キリスト教社会にもたらした混乱と見える。
 村上春樹の主人公はマッチョイズム以後の世界をどう生きていいかわからず、結局、女に見捨てられる。彼らは答えが見つからないままふたたびのマッチョイズムと原理主義の時代に飲み込まれていったと見える。

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