『春、死なん』読みました

春、死なん

春、死なん

 最近、radikoばっか聴いてて、われながらよくないと。
 東京FMで秋元康が始めた生放送のトークショーで、田中慎弥紗倉まなが互いの自作本について話していた。
 それで、紗倉まなの方を読んでみようと思ってしまったわけだから、それは田中慎弥の読解力がさすがなのかもしれない。
 青山真治監督が田中慎弥の小説を映画にした『共喰い』はよい映画だった。田中裕子、光石研、そして、ブレイク前の菅田将暉篠原ゆき子が出ている。脚本は荒井晴彦
 あの映画を観た後も、田中慎弥青山真治の対談を何かで聴いた。まだradikoじゃなかった気がする。
 「春、死なん」は、70歳の男性が主人公。70歳の恋愛がこういうものかどうかわからないんだけれども、ただ、AVの現場では70歳どころか80歳を越えた男優もいるので、実体験を踏まえているのかもしれない。
 AV女優の紗倉まなが小説を書いているのは知っていたけれども、ここまでちゃんと小説してると思わなかった。
 AV女優が性愛について書くって場合、人が予想できるのは、もっと赤裸々な打ち明け話みたいなことだと思うのだ。たとえば飯島愛の『プラトニック・セックス』みたいな。ある意味では、それがAV女優の書く小説に無言で求められている姿かもしれないし、そんな世間の望み通りのものを書いたからこそ、飯島愛のあの自伝的小説はヒットしたのかもしれない。
 しかし、紗倉まなのこの小説は、そんな予想を見事にうらぎっている。
 ほんとは、70歳の男性の性とは、この小説のようなものではないはずだと思う。みうらじゅんも、小室哲哉も、もうないそうだし、普通ってことを言うならそれが普通なんだ。
 重要なのはそう言うことではなく、ここにぬけぬけと小説的な世界が出来上がってることなんだと思う。AV女優が小説を書くことの「説明のつかなさ」に似てる、不思議に説明のつかない家族がここにたしかなリアリティを持って描かれている。
 特に、田中慎弥も褒めていた、「貝」の象徴的な描き方が小説的としか言いようのない書き方で、あざやかにイメージが浮かぶが、たぶん映像化とかはできないものだと思う。
 村田沙耶香の『コンビニ人間』には、ある同時代性を感じることができた。今回、芥川賞を受賞した宇佐見りんの『推し、燃ゆ』もそう言えるのではないか。
 ところが「春、死なん」にはそんな時代性はない。田中慎弥の『共喰い』にだって昭和の終わりという時代が強く反映されていた。「春、死なん」には、大袈裟に言えば歴史観がない。寓意性もない。何の歴史観も寓意性もないのにリアリティがあるのはけっこう怖いんじゃないかと思う。思った以上に射程距離の長い小説なのかもしれない。
 

audee.jp

『バクラウ 地図から消された町』に見る、トランピアン-アメリカンの肖像

 このところ周囲でいろんなことがリンクし始めていてぶきみなくらい。
 昨日ふれた佐伯啓思の『近代の虚妄』にしても、Q-anonの連邦議会議事堂襲撃にしても、示唆していることは、戦後、ずっと自由と民主主義のロールモデルだったアメリカが完全に崩れ去ったということなんだろう。
 フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観たのはおととしのこと。今回の襲撃があれと同じ国のできごととは信じられない。文明が野蛮に、一日で入れ替わる、まるで映画『ボディスナッチャー』のような不気味なメタモルフォーゼを私たちは目撃したわけだ。
 映画『バクラウ』が撮られたのは2019年なんだけど、このブラジル映画に登場するアメリカ人はまさにトランピアン-アメリカンだ。もはや、こういうアメリカ人が現に存在するという事実から私たちは後戻りできない。
 そのリアリティがウルトラ不気味。現実がそれを追い越してしまったので、オチが要らなかったと感じるくらいだ。ここで目撃するものもまた、文明と野蛮のあざやかな転換で、アメリカが、これこそが文明だと主導してきた価値観が、野蛮だとしりぞけられてきた価値観に見事にひっくり返される。
 英語とポルトガル語のセリフが混在しているが、英語のセリフはすべて汚らわしいと感じるくらい。この幻術をこの映画にかけてみせたクレベール・メンドンサ・フィリオ監督の演出は大したものだった。
 『パラサイト』とカンヌでパルムドールを争って、惜しくも次点に終わったらしいが、もし今年だったらどうなったかわからないと思う。
 2019年のこの映画が今(と言ってもシアターイメージフォーラムで公開されたのは去年の11月28日)公開されるのも、シアターイメージフォーラムらしい時代感覚だと思う。
 トランピアン-アメリカンが毒しようとし続ける世界に対して、この映画の示す浄化作用もまたひとつの選択肢だと思う。
 興味深く、また皮肉だと思うには、Wikipediaにはこの映画を「西部劇」と書いてあった。たしかにそう言って100%間違いない。だとしたら、すべての西部劇がこの映画のフリにすぎないと言えるだろう。
 ピルグリム・ファーザーは世俗化を拒否してイギリスを出国した狂信的なキリスト教徒の集団だった。「新大陸(という呼称が彼らの狂信ぶりをよく表している)」にたどり着いたあとの彼らの侵略史が西部劇だった。そうした西部劇を反転するとなぜかリアルになってしまった。不思議というよりやはり不気味なほどリアル。

klockworx-v.com

Q-anonはアメリカ人を代表するか、しないか

  
 この本について書きすぎている。バカの何とかみたいなんだけど、ひとつには網羅的なので引き合いに出しやすいってことと、さらに大きいのは、タイムリーすぎた。
 今年のお正月休みにこの本を読んだ。

ポピュリズムをその言葉通りに理解すれば、ポピュリズムとは、民衆の要求や情念によって政治が動くこと(民衆主義)であり、ポピュリズムを民主主義と対立させることなどできるはずはない。民主主義はその本質にポピュリズムを胚胎しているのだ。

民主主義の死に方(How Democracies Die)』という書物の中で著者スティーブン・レビツキーとダ ニエル・ジブラットはこう述べている。 アメリカ政治を機能させてきたものは何か。それは、「相 互に対する寛容」と、「組織的な自制心」であった。

そうだとすれば、この見方からは、民主政治に対するある種のリアリズムが浮かび上がってくる。「相互的な寛容」や「組織的な自制心」や「手続きへの信頼」が民主主義を支えるとしても、これらの「暗黙の規範」そのものは、民主主義の中から生み出されるわけではないのだ。いや、政治的でさえない。それは、ひとつの国の自生的な文化や歴史的経験、社会的な意識の中で形成されるほかない。

とすれば、政治的言説は、少なくとも民主政治においては、まず基本的にはすべてがフェイクというほかないのであり、政治は、たえず、その本質であるデマゴーグポピュリズムへとなだれ込んでしまうであろう。そのことを前提にするからこそ、対立者への「寛容」と自己自身への「自制」と制度化された「手続きへの信頼」が必要とされたのである。それらがかろうじて、民主政治の根本にある権力への熾烈な欲望を「むき出しではない権力闘争」へと置き換えてきたのである。

民主主義の根底にあるものは、「寛容」や「自制心」や「手続き」によってしか緩和することのできない「敵対」である、ということなのだ。

という内容の本を私が読んでいたとき、ほとんど同時にアメリカで連邦議会議事堂襲撃事件が起きていたのだ。
 ジョー・バイデンは、あの襲撃犯たちを「アメリカ人を代表する人たちではない」と言った。しかし、今度の大統領選挙でトランプは7200万票を獲得している。そして共和党には、今回議事堂を襲撃した暴徒と同じくq-anonを信奉している下院議員すらいる。
 ジョー・バイデンの言うように、これらの人々はアメリカを代表していないだろうが、傍目には少なくとも「代表しかねない」ようにみえる。控えめに言っても、アメリカ人のひとつの典型だとは思わざるえない。
 日本にネトウヨがいるように、アメリカにも、この手のアメリカ人っているよねって、ちょっと身構える気分になる。

www.afpbb.com

gendai.ismedia.jp

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210129/k10012838581000.html?utm_int=all_side_ranking-access_004www3.nhk.or.jp

東京五輪、人として無理でしょって

 東京五輪を開催したとしても、いったい何ヵ国が敢えて参加しようとするかわからない。現時点でお互いに入国制限している状況なのに、現実的な問題として選手とスタッフの準備が間に合うのかどうか。
 ましてや、観客の受け入れまでは、とても手が回りそうにない。無観客を前提として、選手、スタッフ全員のワクチン接種に加え、感染対策を万全にしなければならない。最低でもそうしなければとても開催できない。
 それを実現するのはホスピタリティー、それこそ「おもてなし」のマインドだと思う。具体的に言えば、入国管理についての「おもてなし」の態度だと思う。 
 しかし、何度もいうように、日本の入国管理局は、国際人権団体アムネスティの案件のひとつになっている。「おもてなし」どころではなく人権蹂躙で国際問題になっている。難民を犯罪者扱いして処置が決まらないまま5年以上も収容し続けて死者も出している。その時の入管職員の態度が監視カメラの映像で残っているが、「おもてなし」とは到底いいがたい。
 入管についてそういう思想で臨んでいる国に果たして五輪開催のホスピタリティーを期待できるか疑問だと思う。私じゃなくて世界中の人がそう思うだろう。
 しかも、入管での長期収容は、東京五輪開催決定後に増えたと言われている。はっきり言えば五輪開催のために難民入国の管理を強化した結果として長期収容が増えている。
 あまり表沙汰になっていないが、この事実だけでも、五輪のボイコットがあってもおかしくない事態だと思う。
 入管に収容中の人が死にかけても救急車を呼ばない国が、一方でコロナ対策は万全って、誰が信じますかって話。

www.nhk.jp

www.amnesty.or.jp

『聖断』

聖断天皇と鈴木貫太郎 (文春文庫)

聖断天皇と鈴木貫太郎 (文春文庫)

 半藤一利さんが亡くなったと報じる新聞記事にこの本について書いてあったので。
 『日本のいちばん長い日』は2度映画化された、半藤一利さんのもっとも知られた仕事だと思うが、発表当初は、「大宅壮一編」と著者名を伏せて出版されていた。まだ無名の著者を右翼の暴力から守らなければならなかった。
 その本の取材の為にインタビューをとったインタビュイーの存命ギリギリといった時代になってさえ、そんな日本の状況だった。ましてや戦時中に吹き荒れた右翼の暴力がどうだったか。
 広島と長崎に原爆を落とされても、戦争が終わった解放感の方がはるかに優っていたという、当時の人たちの実感からも、軍部と右翼がその力の源泉としていた恐怖がよくわかる。
 軍部や右翼が「君側の奸を除く」と称して惨殺してきた政治家や軍人には「この人が生きていれば」と思う人が多い。高橋是清原敬犬養毅。著名な人たちだけでなく、国内外で、いったいどれくらいの人たちが軍部や右翼の暴力で殺傷されたかを思うと怒りがわいてくる。
 鈴木貫太郎二・二六事件で瀕死の重傷を負った。この人がその時亡くなっていたら戦争を終わらせることすら覚束なかっただろうと思われる。
 『聖断』は、鈴木貫太郎の生涯をつづった本だ。ほぼ何の戦略もなく、青年将校の謀略で始められ、野放図に拡大した戦争を終わらせるのが、如何に大変だったかと知らされる。
 戦争を終わらせられたのなら、なぜ始まる前に止められなかったのか、といった批判を、天皇の戦争責任についての議論で聞いたことがあった。それはあまりにもお気楽な空論のいうべきものだ。そもそも始まった時は戦争ですらなかった。満州事変、支那事変という謀略だった。
 その首謀者だった石原莞爾の小賢しさに対して、戦争を終わらせた鈴木貫太郎の賢明さは、最近、アメリカで吹き荒れている衆愚政治の有り様と思い比べて、哲人政治を思わせる。
 タイトルの「聖断」にあるように、戦争を終わらせたのが、結局、超法規的な手段だった事実には、考えさせられる点がある。
 二・二六事件に対処した時と、戦争を終わらせた時、この2度だけが昭和天皇立憲君主の立場を踏み外したときだった。もし、昭和天皇立憲君主ではなく絶対君主だったら、そもそもあの戦争はなかった。
 半藤一利によると、日本の天皇は、「軍人勅諭」の大元帥明治憲法の「天皇」の二重性に引き裂かれていた。それがシビリアンコントロールを失い、軍部の独走を招く原因となった。
 それを言えば、明治維新がそもそも「王政復古」と「文明開化」に引き裂かれていた。三島由紀夫が自決の1週間前のインタビューで、「海軍は最初から文明開化ですね」といい、しかし、彼自身は、「陸軍の暗い精神主義」に惹かれると語っていた。
 しかし、私は思うのだけれども、陸軍の在り方がどんな意味でも精神主義なだと呼べるものだったろうか。ただの倒錯した独善的なナルシシズムにすぎないと思う。
 三島由紀夫でさえ、彼の知識や意識の外側にあるものの方がはるかに大きく、彼の行動を決定していたと思われる。軽々に何が正しい、何が間違いと論じ去ることは難しい。
 ただ小賢しさと賢明さを比べると、賢明さの方には不確実さを許容する余裕があるように思った。

近代と慰安婦問題

近代の虚妄―現代文明論序説

近代の虚妄―現代文明論序説

 日本は歴史を欧米と共有してきたし、歴史という概念を共有してきた。近代という歴史意識のもとで、二つの世界大戦を戦った。
 その歴史意識のもとでは、第二次世界大戦東京裁判でケリがついた。勝者が敗者を裁くことに当時から批判がなかったわけではない。それでも、東京裁判は「人道」の観点から受け入れられたわけだった。それこそが日本が欧米と共有してきた近代だったからこそ、勝者、敗者の双方が東京裁判を受け入れられた。
 そこには非戦の願いが籠められていた。単に、勝者が敗者を裁く、弱肉強食としての報復にすぎないという非歴史的な観点ではなく、この戦争の「真の」責任はどこにあるのかという問いが問われているという意識、まさに形而上学的な意識が共有されていた。その文脈で、天皇の戦争責任も争われた。
 天皇の存在が日本の統治に便利だったなどということは、近代の歴史意識にとっては全くの傍流であって、それはアメリカ的なプラグマティズムの文脈にすぎなかった。
 繰り返しになるが、あくまでも「人道」という観点で東京裁判は受け入れられた。それがまさに近代の意識だった。A級戦犯が本来軍事裁判て裁かれる犯罪者ではない、などいう苦情は、歴史意識のもとでは戯論にすぎなかった。
 A級戦犯は戦犯ではないという申し立ては、東京裁判は報復にすぎないという申し立てである。しかしもし東京裁判が報復にすぎないとすれば、天皇の戦争責任が問われたはずである。戦争責任は、「理性的に」判断すれば、まちがいなく軍部にあった。
 これは、日本も欧米も受け入れられる、理性的で公平で人道的な結論だった。
 こうして第二次世界大戦の歴史は閉じられた。この歴史を巻き戻そうとするものは右翼であろうと左翼であろうとバカなのである。なぜなら理性に反しているからだ。右翼がバカに見えるのは歴史と近代の意識からすれば、まったくまっとうな感覚である。
 さて、ここで慰安婦の問題だが、果たして慰安婦問題はどちらの側にいるのか。知性の側にいるのか、反知性の側にいるのか。
 少なくとも80年代までは、慰安婦問題は近代の問題として、知性の側から提議されたと認識されていた。その時までは、日韓ともにこの問題を共有できたし、現に双方で合意され、女性基金が立てられ、一部は補償もされたのだった。この動きに待ったをかけた挺対協の主張は、では何なのか?。
 彼らの主張は一見「知性的」に見える。しかし、それは、右翼の東京裁判に対する異議申し立てが一見「知性的」に見えるのと同じなのだ。その証拠に、挺対協の申し立ては二転三転し続けている。最初は、慰安婦問題について日本政府の関与を認めろと言っていた。『主戦場』という映画では、閣僚が靖国参拝をするから謝罪を受け入れられないと言っていた。つまり、彼らの異議申し立てには、実は根拠がない。逆に慰安婦証言のウソを指摘されても理性的な答えを出したことがない。というより暴力的な示威行為で批判を押さえつけている。韓国社会で慰安婦を批判した意見について、その反応が理性的であったかどうか。
 東京裁判については左右双方から異論はある。しかし歴史はそれについて結論を出してすでに時代は動いている。もちろん、理性的な異論であれば受け入れる余地はある。現に慰安婦問題もいったんは決着した。それについて異論を唱えるのも、もちろんそれが理性的な異論であれば共感を得ることができるだろう。現に、村山談話までは日本人の大多数がそれを受け入れていた。
 しかし、その後の反論に関してはとても知性的とは言えないだろう。慰安婦はもはや聖域化してしまっている。ここに日本と韓国の近代の受容の差を見てしまう。日本の右翼にとっても近代は受け入れがたいものだろう。挺対協はそれと同じ場にいてお互いにいがみ合っている。
 問題は、日本の公的な意見が右翼に寄り添いがちな度合いをはるかに超えて、韓国の公的意見が挺対協にべったりであることだ。
 この問題がこじれたについてはもちろん日韓双方の政府の対応に問題があったが、日韓両国民の意識の差には、やはり歴史認識の差があり、この解決は難しい。なぜなら韓国はこの問題を解決したいと思っていない。それは歴史意識に擬態したプラグマティズムの態度だ。なので、この問題は、韓国の選挙のたびに蒸し返される、もはや忘年会のカラオケのようなものになっている。または、法事のたびに繰り返されるおじさんの兄弟喧嘩のようなものか。
 いずれにせよ、近代も歴史もすでに過去のものになりつつある。慰安婦問題は近代の残照のもとで演じられているコメディーなのだ。近代を共有した欧米人にとって格好の見せ物だろう。

アーティゾン美術館の続き

 アーティゾン美術館について書きながら寝落ちしたのでその続きを。

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鈴木其一のサイン

 こないだの続きってことで、鈴木其一の《富士筑波山屏風》にあるサインは、「噲々其一(カイカイキイツ)」。師匠の酒井抱一の四十九日を過ごしたあと家禄を返上し一代画師となった。脂の乗り切ってるころ。

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《富士筑波山屏風》鈴木其一

 筑波山の青と松の緑が素晴らしい。ちなみに村上隆の「カイカイキキ」はたぶんこの鈴木其一から取ってるんだろう。

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《日光浴(浴後)》メアリー・カサット(1901)

 2016年に横浜美術館で大規模な回顧展があったメアリー・カサットの絵が2点あった。
 メアリー・カサットはアメリカの裕福な家のお嬢さんだったが画家を志しパリに来た。親からは「じゃ、自立しろ」と言われたそうだ。
 メアリー・カサットは喜多川歌麿を何点か所有していた。横浜美術館の展覧会では多色刷りの木版画のシリーズが展示されていた。それを見ると歌麿への傾倒がはっきりと看てとれる。この母子像も何でもない日常を描くこと自体が浮世絵の影響だっただろう。この絵を見ても聖母子なんて全然連想しない。そういう画題の解放がこの時代に起きた。そこに歌麿北斎の影響は確かにあったのだろう。

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《右足で立ち、右手を地面に伸ばしたアラベスクエドガー・ドガ

 ドガは晩年ほとんど視力を失った。失意のうちに引きこもって最期を迎えたと思われていたが、死後のアトリエからこのような無数の塑像作品が発見された。ロウをこねて作ったもので、後に鋳造された。現在見られるドガの立体作品はほぼすべてその時発見されたものであるはずだ。
 ただ、ドガは生前ただ一度だけ彫刻作品を発表したことがあった。第6回印象派展に出展した《14歳の小さな踊り子》。この時の経験が視力を失ったあとに役立ったと言えるだろう。
 ドガはなかなか偏屈な人だったらしいが、先程のメアリー・カサットと生涯を通じた交流があった。
 メアリー・カサットが生前の手紙をすべて焼却して亡くなったので、どういう関係だったか詳らかにしないそうだが、ドガにこういう人がいたことは何かホッとする。

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《踊りの稽古場にて》エドガー・ドガ
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レダと白鳥》エミール=アントワーヌ・ブールデ
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《傷つけられた精を運ぶケンタウロス》エミール=アントワーヌ・ブールデ

 彫刻家として有名なブールデルの水彩画が2点。
 箱根彫刻の森美術館にあるブールデルの《自由》《勝利》《力》《雄弁》は素晴らしい。とくに桜の頃に訪ねるとよいのだ。

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エミール=アントワーヌ・ブールデル《雄弁》

 レダと白鳥は、ゼウスが白鳥に化身してレダを誘惑したというギリシア神話がモチーフになっている。葛飾北斎の《蛸と海女》と同じ発想なんだが、なぜ動物と女性の性交がセクシーに感じるのか不思議。人間的な抑制がなくなるせいなのか、蛸とか羽毛とかの肌触りが性愛を連想させるのか、ともかくこの2作品もさらりと描きあげたらしい水彩画ながら、重なり合う肉の重みを感じさせる。

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ピエール=オーギュスト・ルノワール《すわる水浴の女》

 1914年、ルノワール晩年の裸婦。ルノワールはイタリアを旅行した後、大きく画風を変えた。マルセル・プルーストが「女たちは、以前の彼女たちと違った女になって通りを過ぎてゆく。なぜならそれはルノワールの女たちだからだ。」と呼んだ華やかな女たちではなく、この絵のような、明らかに現実にはありえないフォルムの裸婦を描き始める。
 パトロンやコレクターは戸惑ったようだ。ルノワールのコレクターとして知られるスターリング・クラークはルノワールを色彩家として彼に匹敵するものはないと評価していたが、ルノワール晩年の裸婦を「ソーセージのような色」「空気で膨らんだ手足」などと評して、一切買っていなかった。
 私も長い間ルノワール晩年の裸婦が理解できずにいたが、絶筆の《浴女たち》を観て、とつぜんこの美しさがわかった。今まで何を観てきたのだろうと思った。これこそルノワールだった。ずっと印象派と格闘しながらこの肉の重みと手ざわりを手に入れたのだった。晩年のルノワールのアトリエに足繁く通っていたアンリ・マティスは、絶筆となった《浴女たち》を描くルノワールを目撃している。リューマチで動かない手に筆を括り付けて描いていた。マティスは《浴女たち》を後に「過去に描かれたどの作品よりも美しい彼の最高傑作」と評した。