'文化'資源としての炭鉱展

炭坑美人―闇を灯す女たち

炭坑美人―闇を灯す女たち

目黒美術館で'文化'資源としての炭鉱展が開かれている(〜12月27日まで)。
炭鉱出身の画家が炭鉱を題材に描いた絵と、カメラマンが炭鉱に取材した写真で構成されている。
熱を感じさせるよい企画だ。
この展覧会を社会的な事件ととらえることもできる。
私がとくに圧倒されたのは女坑夫の存在。山本作兵衛の絵や千田梅二の版画もそうだが、『炭鉱美人』と題された田嶋雅巳の写真にはつよい感銘を受けた。先に山本作兵衛と千田梅二を見ていたからこそよけいにそうなのだろう。この笑顔の老女たちが、かつては100キロもの重さを頭で支えながら、せまい坑道を何度も行き来していたのだ。
土門拳の有名な写真がかすんで見える。彼の写真は炭鉱の人々の中に入り込んでいるように見えるが、それでもまだ表層を撫でていたに過ぎなかったのだと感じざるえない。
働く男たちの真っ黒な笑顔に感動しろといっているのではない。私は、この男たちの笑顔には、先の老女の笑顔に受けたような感銘は受けない。なぜなら、いま日本で働いている男たちのほとんどすべてが、この炭鉱夫たちの真っ黒な汗に自分を投影することができるだろうから。少なくとも私は、この男たちに自分の姿を見てしまう。
以前から何度かふれているが、ホリエモン事件がピークだったころ、どこかの経済学者かコメンテーターが、‘額に汗して働く価値’などと口にするのを一度ならず耳にした。
見事なほどポイントがずれた見解だが、しかし、私が彼らを憎まざるえないのは、私自身たしかに日々意義を感じて働いているからだ。しかし、それはきわめて個人的なことであって彼らに言われることではない。そして、堀江貴文その人に対してもいうべきことではないだろう。どんな仕事にしてもやる以上は努力するのは当然だし、堀江貴文が私以上に努力していなかったとは到底思えないからだ。それでもあえてそれを口にするのは、おそらく彼ら自身が‘額に汗して’いないからだろう。
全身の汗に石炭の粉をまみれさせ振り向いた男たちのあけすけな笑顔は、たとえば現代のオフィスビルで、深夜残業の現場にカメラを持ち込んでも撮ることのできるものかもしれないのだ。そこに感動するのはおかしい。そこには自嘲しかないはずである。
日本の近代は、つまり、この炭鉱だった。日本全体を覆う虚飾を取り去ってしまえば、そこにはきっとこの炭鉱の町が現れる。
日本の近代があまりにも長く続きすぎたのは、全アジアの中で、日本だけが抜け駆けて近代化したからにすぎない。
そしてそれがびっくりするほどうまくいったのも、日米冷戦構造のはざまにうまく入り込んだためと、1940年体制といわれる戦時下の国家総動員の非常体制を、戦後もそのまま引き継いだためである。
その体制がようやく役に立たなくなったというときに、改革の動きに対して反対するのは、国の将来などお構いなく、うまみを吸い尽くしたい既得権益に属する人たちと、昔がよかったと駄々をこねる、ものの見えない人たちの二種類だろう。
富山妙子が炭鉱を取材し始めた戦後には「女が入ると炭鉱が穢れる」といわれるようになっていたそうだ。ホンの何十年か前には男も女も一緒に裸になって働いていた事実があるにもかかわらずだ。
‘穢れ’というその感覚は面白いと思う。労働が近代化していくということは、言い換えれば、人間を疎外していくことにすぎない。坑夫たちが、女を‘穢れ’として疎外したのと同じように、やがて時代がすすむと、彼ら自身が、いわば‘穢れ’として疎外されていくことになる。
ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」にあったこんな一節をかつて引用した。

農耕者はひとりの人間ではない。それはパンを食べる人の犂である。極限的にはパンを食べる人自身の行為がすでに田畑の労働であって、食べる行為はその労働にエネルギーを供給している。

労働者自身が‘額に汗する価値’を、つまり、労働に価値観を見出しているのは滑稽だと思う。炭鉱の男たちの笑顔には、
あの高度成長という、ある意味、喜劇的な季節を、永遠だと信じ込んでいる、その滑稽さがにじんでいる。
はっきりと日本の近代が終わった。その時代認識がなければ実現しなかった展覧会だろう。この企画を立てた人には拍手を送りたい。
だが、あの老女たちの笑顔は、ひとつの時代が終わっても生き続ける美しさだと思う。それは、‘額に汗する価値’などという男たちの自己弁護とはまるで違う。それはあけすけに生きようとする必死な姿であり、必死に生き抜いてきた証しの笑顔だからだと思う。美は虚飾ではなく、虚飾をはぎとることこそ美なのかもしれない。