わたくし最近、週刊現代もよく買う。井筒和幸の映画評が面白い。でも、やっぱり現役の映画監督なので、邦画の批評ははばかられるらしく、洋画の紹介が多い。「パークランド」は、このコラムで知って観にいった。
ケネディ暗殺、4日間の真実、みたいなことになってるんだけど、ケネディ暗殺の真実なんていまさらわかりようがないので、とりあえず、時間軸にそって、事実を再現してみましょう、ていう、疑似ドキュメンタリーみたいな映画。
制作にトム・ハンクスの名前が見えることからの連想といわれるとそれまでなんだけど、「キャプテン・フィリップス」を観た人は、あのスタイル、あの手法で、ケネディ暗殺の4日間が綴られるんだと思えば、作品のふんいきをイメージしやすいと思う。
だから、この映画は、映画の宣伝とは逆に、ケネディ暗殺の真実は、まぁええとして、なにがなんだかわからないうちに、事件の渦中に放り込まれた人たちのドラマでなければならないはずだった。
「パークランド」は、ケネディとオズワルドが、ともに運び込まれた病院の名前で、そのふたりがほとんど日にちをおかずに同じ病室に運び込まれたことは、たしかに、事件の現場を思わせる新たな視点だったと思う。
ケネディやジャクリーンにフォーカスを絞らない演出は正しいと思うんだけれど、シークレットサービス、病院の医師や看護婦、FBI、暗殺犯の家族、と描いているのに、オズワルド逮捕にいたった警察の混乱がすっぽり抜け落ちてるのはなぜなんだろうと思う。その混乱が現在の謎や憶測を生んだはずなんだし、そこがもっとも現場だったはずなんだけど。
私としては、むしろ、FBI、シークレットサービスは削って、病院、警察、この二つの現場と、暗殺の現場をたまたま8ミリで録画してしまったザプルーダー氏とオズワルドの兄貴、このふたりの視点でよかった気がする。
話は変わるけれど、昨日書いた『最後の親鸞』についてまた考えていたんだけれど、私の読んだ版はたしか山折哲雄が解説に「特に目新しいことはない」みたいなことを書いていたのが記憶に残っている(記憶だけで書いている)が、それはつまり、真宗の教学という側面でお墨付きをもらったともいえるし、また、吉本隆明が、親鸞について書いているこの本は、「実は、写楽は・・・」とか、「実は、シェークスピアは・・・」みたいなことを目指して書いていないことを示している。
記憶だけで書いているが、たしか、「契機」という言葉で、自力と他力の違いを説明していたように思う。
ここからは私の考えにすぎないが、法然上人と親鸞聖人の何が違うかというと、親鸞聖人の信仰は称名念仏さえ相対化してしまうことで、身体性を喪失するかに見えるが、にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかわからないが、決定的に経験的になる気がする。