「TSUKIJI  WONDERLAND」

knockeye2016-10-23

 遠藤尚太郎監督のドキュメンタリー「TSUKIJI WONDER LAND」は、国内より海外でまずヒットしているらしい。それは、築地市場が、映画の中でも言われている、世界一というよりむしろ、世界に類例がない存在である証明かもしれない。
 思い返せば、ダイエーの創業者、中内功が、産地直送の低価格で商売し始めたころは、「卸」ってものは、交通が不便だった時代に必要だったにすぎず、これからはだんだん廃れていくのだろうと思っていた。
 しかし、大量生産、大量消費の時代が過ぎ去った今、「卸」の価値が再認識されてくるようだ。ダイエーの場合を見ても、もし、流通に卸が介在しない場合に起きること、ひとつは、生産者が小売の言いなりになる、ふたつは、小売が生産者の言いなりになる。大量生産、大量消費の時代には、商品の価値という変数がほとんど変動しなかったからだ。そして、消費者の前の陳列棚には、金を払いたいと思えるものはいつしか何もなくなった。
 たとえば、極上のワインと、そうでもないワインを飲み比べて、それを言い当てられるのが、GACKTだけだとしたら、味の区別がつかない、他のほとんどの人にとって、そのふたつの違いに価値があるのか、それともないのか?、だが、もし、そこに価値がないとすれば、少なくとも、流通の可能性はなくなる。流通が可能なのは、やり取りできる価値があるからで、その価値は人のコミュニケーションから紡ぎだされてくる。
 だから、これは気の利いたフレーズとかでなく、あからさまな事実として、コミュニケーションそのものが価値だといえる。世界中の漁場から集まってくる魚の中から、東京中のシェフが信頼する仲卸が、高い値を付けて競り落とす魚は、間違いなく良い魚であり、そこに価値がなければ、この世に価値という概念が存在しない。
 逆に言えば、築地市場という場があって、そこに、漁師、仲卸、シェフのコミュニケーションが存在しなければ、魚の価値は存在しない。そこには、ただの魚類の死骸の山があるだけだろう。その死骸の山のどこから食らいつこうが、同じタンパク質だろうという人は、おそらく野良犬ほどの文化も持ち合わせていないだろう。
 外で食事をするとき払う金は、そうしたコミュニケーションへの対価なのだ。多くの人は、築地の仲卸や一流のシェフのようには味の違いが判らない。しかし、そうした職人文化に金を払うことで、多くの人もまたそのコミュニケーションに参加する。そういうコミュニケーションの総和が社会なのだから、それは文字通り、私たちの生活の糧なのである。
 これは、なにも高いレストランだけに限ったことではない。ロシアをバイクで横断したとき、モスクワに近づいて、ロシアに来てはじめてマクドナルドで昼飯を食べた時、ここで食べているのは、マクドナルドという情報なのだと実感した。
 マクドナルドや吉野家が今苦戦しているとすれば、味がまずいからではなく、コミュニケーションを失っているからだ。昔、マクドナルドや吉野家でアルバイトしている若者には夢があった。吉野家の社長はアルバイト出身であるはずだ。今、彼らに夢があるだろうか?。甘い話をしているのではない。ファストフードのチェーン店が社会にコミットしているか、いないかということなのだ。どんな産業も、社会とのつながりを失えば存立しえないのはあたりまえのことだろう。
 築地市場は、それが日本橋にあった江戸時代から続いてきた、これこそがまさに文化というべきものだろう。コミュニケーションだけが文化を生み出せる。権威が押し付ける文化など、まったくの妄想にすぎない。