『コンセント/同意』ネタバレ

 ジャニー喜多川の事件、ジミー・サビルの件、それからこないだの『メイ・ディセンバー』まで、まだティーンに満たない子と性的な関係を持つことの是非は、判断が難しい一面はある。
 『メイ・ディセンバー』では、旦那が「あのことについてきちんと話し合ったことがない」ときりだすシーンがあった。男が「俺はまだ13だった」という一方で、女は「あなたが誘ったのよ」という、逆マウントの取り合いというか、この関係でなければ、決定的なパンチラインになりうる一言をお互いに言い合うのだけれど、少年と女性という、普段なら無条件に性的被害者を主張できるはずのふたりが、永遠にあいこのじゃんけんを繰り返しながらたちすくんでいる、そういう変な感じだった。
 しかし、
『メイ・ディセンバー』の場合は結婚って形でけじめをつけてるわけだが、ジャニー喜多川とジミー・サビルの場合は、相手が多数であることと、力関係が極端に不均衡である点、それに加えて、相手が少年というより小児というべき年齢であることを考えれば、この反社会性は明白だと思う。
 ペドフィリア小児性愛)は反社会的だから断罪される。今LGBTQと言われてる性的な志向が反社会的だった時代もあったことを考えると、将来、ペドフィリアがLGBTQにPの一文字を加える日が来るかどうか。私は否定的ですけどね。
 ただ、この『コンセント/同意』に描かれたフランスの状況は、ペドフィリアの作家が、自身実体験を本にしてしれっと生きてられるらしい。まるまる実話だそう。
 当人、ガブリエル・マツネフは、今海外に潜伏中らしい。しかし、この映画の原作が発表されるまでは、ペドフィリア作家として受け入れられてきたわけで、その状況はジャニー喜多川やジミー・サビルとは全然違う。
 これについて、突然、良識派ぶって大袈裟に十字を切って見せるつもりはない。ジャニー喜多川もジミー・サビルもガブリエル・マツネフも、個人的には感覚的に気持ちが悪い。しかし、その感覚の中には、幾分かのLGBTQに対する差別意識と似ている部分もある。
 奇しくも『エマニュエル夫人』がリバイバル上映されたのは、あれは今年だったか去年だったか。今見返してみると、あれは、男も女も盛大に不倫しようぜ!、アジアでエキゾティックな若い子と遊ぼうぜ!って映画だった。
封建道徳が眉を顰めるようなことを敢えてやることに何か意味があった時代。その感覚が結局はLGBTQの解放につながっていった感覚だったには違いないと思われる。
 『エマニュエル夫人』にも少なくともレズの描写はあるわけで「女と女がやって何が悪いの?」って、その感覚の延長上に「子供とやって何が悪いの?」って感覚が生まれるのは理解できる。
 実際、『コンセント/同意』に描かれているマツネフはふてぶてしいにもほどがある。せめて最初のデートにはプジョールノーで迎えにきてもらいたいものだが、バスなのが腹立つ。敢えてバスでしょ、みたいな、バスですけど何か?、みたいなポーズと同じ態度で、ペドフィルですけど何か?、を押しとおす。
 で、そういう50代の老作家に惹かれる少女がいないかって言えば、必要充分な程度にはいるわけ。このタイトルの「同意」の意味は重くて、同意どころか、2人の関係を知った母親が引き離そうとして女の子を寄宿学校に入れようとすると、彼女は「そんなことするなら家出して彼と暮らす」と言い出す。これが15歳の男と14歳の女の子なら純愛物語なのに、50歳の男と14歳の女の子だとなぜ醜悪なのか?、は、むしろ『メイ・ディセンバー』のテーマだった。
 ヴァネッサの場合、結局は彼女自身が14歳の幼い性欲に身を任せたにすぎない。それなのに何が許せないのかといえば、マツネフの側の欺瞞だろう。
 もしかしたらその欺瞞は、ヴァネッサが経験しなかった、相手が15歳の少年であっても起こりえたかもしれない。それでも相手が自分と同じくらい幼ければこれほど憤ろしくはなかったろうと思える。
 すべての他の恋と同じようにヴァネッサは自分で自分を滅ぼしたにすぎなかったとしても、この場合の不均衡には搾取と言える欺瞞がある。当時は見えなかったけれど、ここには初めから欺瞞があった。それが許せないのだろうと思う。
 こういう歳の差カップルは、側から見ると絶対うまくいかないと見える。で、現にうまくいかない。いくつか例を挙げると、安室奈美恵とサム、三船美佳高橋ジョージ沢尻エリカ高橋剛
 安室奈美恵とサムの15歳差はまだマシかも。オードリーの若林さんとこと同じだ。離婚はしたけどそんな悪い関係でもなさそうに見える。
 でも、その他の24歳差と22歳差と同じように、女の方がむしろ積極的だったように見えるけどどうだったのかな。
 女がなぜ男に惹かれるかは、なぜ突然冷めるかと同じように全くわからない。
 それをドン・ジュアン気どりで振る舞ってる50歳の作家は滑稽でもある。なんでかわからないけど惚れられて、なんでかわからないけど冷められた、みたいな経験は、世の中の男性に珍しくもないだろう。山口敬之の場合のようなレイプドラッグを用いたあからさまなケースはひどいけれど、「同意」はやはり重いと私は思う。だからこそ、著者もこのタイトルを選んだのだろうと思う。
 恋愛で傷つくのは男も女も幾つになっても変わらない。それを相手の男のせいにして生きていても仕方ない。ヴァネッサの選択はクレバーだった。つまり本を書いた。マツネフの性の物語を上書きした。『エマニュエル夫人』の世界を#MeTooの世界に書き換えた。
 まあしかし、これからも女はバカな男に引っかかり続けると思うな。保証する。

courrier.jp

www.elle.com

www.tokyo-np.co.jp