『時々、私は考える』

 先の日曜日に観たのだけれど、その時点では、少なくとも私の行動範囲では新宿シネマカリテでしかやってなかった。
 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のレイ役で一躍スターダムにのしあがったデイジー・リドリーの主演・プロデュースなのに。
 この映画を観て思ったけど、あのスター・ウォーズのシリーズは、アダム・ドライバーといい、オスカー・アイザックといい、ドーナル・グリーソン、ローラ・ダーンと、何となく『スター・ウォーズ』って感じじゃない役者さんたちが多かった。
 この映画も見事にスター・ウォーズっぽくなく、一方でこういう映画をやらないと心のバランスが取れないのかなぁと余計な勘ぐりをしてしまう。
 原題「Sometimes I Think About Dying」をそのまま訳せば「時々、私は死ぬことについて考える」だと思う。英語のニュアンスがわからないので何だけど、「時々、死のうかと思う」と訳したくなる。
 アメリカの海沿いの田舎町が舞台。アメリカの中央部の田舎町だとトランプ支持者が多そうで嫌だけど、窓から港が見える小さなオフィスは、それだけでQアノンが多数派にはなりにくそうな穏やかさに満ちて見える。
 窓から見える荷揚げクレーンの鎖を見ながら、主人公のフラン(デイジー・リドリー)は、時々死ぬことを考えている。
 レイチェル・ランバート監督の絵作りは独特で、それこそこないだのニナ・メンケスの講義を思い出した。誰かがオフィスで会話している。しかし、その会話はエッカーマンゲーテの会話というような会話ではない、取り止めのない喃語にすぎない。その会話の間、カメラは会話の主も、その会話を聞いているフランも映さない。まるで間違ってシャッターを押してたかのように、絶妙にその間を写している。会話の主から、目を背けているのではなく、しかし、目を向けているのでもなく、まさしくそんな空気のようにフランが存在しているってことがわかる、見事な絵作りだと思った。
 定年退職する同僚のために寄せ書きを求められる。その同僚について取り留めなく思いを巡らすけれど、結局、定年退職おめでとうとだけ書く。
 フランは職場でいじめられているわけでもなければはじかれてるわけでもない。彼女の側が反発してるわけでもない。世の中のほとんどの人がそうであるようにそこにいる。
 視覚言語の文体が貧しいとこういう描き方ができないのだろう。映画の主人公をドラマの主人公にしてしまう。結果としてヒーローしか描けないし、しかもヒーローをヒーローとしか描かないつまんないことになる。
 フランはドラマティックなヒロインではないし、それどころかすごく自己肯定感が低い。それで、ふとした偶然に訪れた恋のチャンスを、心にもない言葉で台無しにしてしまう。あなたはありふれた人ではないと言われることに反発してしまう。
 さて、こういうありふれた人を描くのは実はすごく難しいのではないか。特に、英雄譚の文体しか持ちえない作家なら不可能ではないか。ありふれた人をありふれたまま愛おしく描くことに成功したのはレイチェル・ランバート監督のオリジナルな文体によるところが大きいだろう。
 もちろんキャスティングも絶妙だと思う。アダム・ドライバーやドーナル・グリーソンをスター・ウォーズに起用するその逆の手つきで、デイジー・リドリーをこの主人公に抜擢したのはなかなかの手管だと思う。というか、デイジー・リドリー自身がこのプロデュースなんだから、なんかもう大したもんだ。
 タイトルと音楽がちょっと擬古調なのは、大人のお伽話的に取れなくもないからなのかなぁ。ある意味、教養小説と取れなくもないのです。
 公式サイトの監督コメントには
「私がフランの物語を描くことを決めたのは、
彼女が周囲の世界とのつながりを見出そうともがくときに感じる孤独に共感したからです。
人は、死ぬことを考えるとき、本当は“生きること”を気にかけているのだと思います。
・・・
フランの物語を通して、
シンプルなメッセージを皆さんに伝えたいと思います。
・・・
一歩外に出て、目の前に広がるものを自分の目で見よう。
・・・

あらゆるリスクを冒そう。“生きて”いくために。」

隣に座ってた女性は泣いてました。その一歩が踏み出せればいいですが。

sometimes-movie.jp