『ある男』ややネタバレ。

 個人的な石川慶監督経験は最悪。『蜜蜂と遠雷』『アーク』と2作品観ているけれど、『蜜蜂と遠雷』は先に恩田陸の原作を読んでいたので、原作との落差がひどすぎた。これはまあ原作ファンあるあるだろうから仕方ないとはいえ、映画化不可能と言われている大ベストセラーを映画化して、中抜き底上げのスカスカな作品にしてしまい(原作ファンからすると)、その上それが評価されるっていう、なかなかイライラする展開だった。
 『アーク』は前半よかったけど後半は凡庸。嫌いじゃないけど消化不良が残った。『蜜蜂と遠雷』はビジュアル化に失敗している。『アーク』はビジュアルは魅力的だが話がつまんない。両方とも原作の映画化でオリジナル脚本じゃないし、監督が自分でチョイスしているのか、それとも映画会社から無茶ぶりされてるのか分からないが、とにかく、石川慶監督だから見てみたいというような作家性は感じていなかった。
 今回の『ある男』も予告編を見る限りでは、3年間夫婦だった旦那が、亡くなってみるとまったくの別人だったって話らしく、『嘘を愛する女』とほぼ同じに見えて、よくある話かなと思い、まあみなくていいかと思っていたのであるが、YouTubeでのレビューを見ると、どうも話は安藤さくらの演じる嫁さんではなく、予告編ではちらっと出るだけの妻夫木聡の演じる弁護士の話らしいとわかり、思ったより奥行きがありそうで、ちょっと見てみる気になった。
 出会いでつまずいてしまった監督の映画なので、観る前に長々と言い訳が必要になってしまったが、結論から言うと、今まで見た石川慶作品ではこの『ある男』が一番よかった。
 妻夫木聡真木よう子夫婦と安藤さくら窪田正孝夫婦のコントラストが良い。映画の時間を通して何が描かれるかと言えば、窪田正孝妻夫木聡の対比であり対話なのである。窪田正孝(ある男)の方は死んでいるので、つまりこの映画は妻夫木聡の内面で起こる心理劇だといえる。本来、妻夫木聡の目が及んでいないはずの安藤さくら母子の描写ですら、妻夫木聡の内面で起こっていると感じられるほど。
 平野啓一郎の原作を読んでいないので、その読者が何というか分からない。『蜜蜂と遠雷』の時は、ゲーテの『ファウスト』とマーロウの『フォウストゥス博士』ほど違うと感じたものだった。削りすぎて訳が分からなくなり、余計なものを足していた(どうも『蜜蜂と遠雷』ショックが後を引くな)。だから、原作ファンからすると、もしかしたらディテールで落ちているところがあるかもしれない。
 そもそも長編小説と長編映画では、時間の長さが違う。例えば『サイダーハウスルール』なんかでは、原作のジョン・アーヴィングがシナリオを書いているからこそ成功しているが、長編小説のプロットだけ追っちゃうとスカスカになりがちなのは仕方ない。この映画でも清野菜名と仲野太賀カップルのパートは消化不良と言える。
 清野菜名と仲野太賀のカップルだけ過去に対するスタンスがぶれている。過去を売った側が都合良くその過去を取り戻せるかどうかはよくわからない。
 売った側と書いたが、そもそも柄本明の演ずる戸籍ブローカーの実態がよくわからない。売ったと書いたのは、売った側であれば過去に戻る可能性もあるかと思ったまでで、実際は売ったかどうかも分からない。
 しかし、その辺のサブプロットを簡略化して、妻夫木聡窪田正孝の2人に焦点を絞ったのが今回は良かったと思う。『アーク』の時は(と、また掘り返すが)、寺島しのぶのパートはどうなっちゃったの?って感じだった。つまり、寺島しのぶ岡田将生のパートの価値観の対立を主人公がすんなり受け入れ過ぎていて、せっかくの価値観の対立がドラマにならない。そのせいでスカスカな感じがする。
 『ある男』では、仲野太賀のパートをあっさり通り過ぎることで、妻夫木聡窪田正孝の対比に集中できたと思う。ということは、このパートが必要だったかということになる。「仲野太賀の無駄遣い」とYouTubeでは言っていた。何なら後ろ姿だけでも成立した気がする。後ろ姿に清野菜名が近づく、声をかける前に、一瞬、妻夫木聡の方を振り返る、すでに立ち去っている、で問題なかったような。
 小籔千豊柄本明の存在がいい味付けになってる。「人権派弁護士先生の・・・」みたいな説明台詞の臭みが消えるのも小籔千豊のおかげだと思う。
 それをいうと、妻夫木聡安藤さくら窪田正孝モロ師岡って人たちの存在感が、言わずもがなのことを言わせない説得力になっている。
 特に、妻夫木聡は、失礼ながら、今までこんな感じの抑えたお芝居をする人だと思ってなかったのですごく新鮮だった。


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将軍家の襖絵 根津美術館

 根津美術館の庭は、知らない人もめずらしくないのかもしれない。ふだん美術館に行く人でないと、表参道にあんな庭があるとは誰も思わないのではないか。
 ただ、紅葉のピークを見極めるのが難しい気がする。今回も少しピークを過ぎていた。根津美術館の昔を知らないので、比較できないが、「全山燃ゆるがごとく」一斉に紅葉ってことになりにくいのは気候変動と関係あるのだろうか。

根津美術館の駐車場

 この日は朝の天気予報で「最高気温20℃」と言っていたのに完全に裏切られ、冬ざれた時雨空になった。後で見直すと13℃だったようで、冬の始まりを予感させる一日になった。

根津美術館の紅葉

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 将軍家の襖絵というその将軍は室町幕府ので、室町時代の将軍は江戸時代と違ってお城に住んでるわけでもなく、御所と言ってもけっこうよく引っ越ししたそうなのだ。襖絵はただの建具という認識で、そんな引っ越しの都度捨てていて、室町時代の将軍家の襖絵は一枚も現存していないそうだ。
 室町時代水墨画の最盛期とも言われている。その大画面の襖絵を惜しげもなく使い捨てにしていたわけである。最盛期って案外そうなのかもしれない。
 最近YouTubeで聞いた司馬遼太郎の講演に「幕末にはろくな芸術がなかった」と言ってるのがあって驚いたのを思い出した。司馬遼太郎って人は文句なしに博覧強記の知識人だが、例えば、北斎ひとりを挙げても、その「幕末芸術冬の時代説」に反論できそうな気がする。これに、伊藤若冲、浦上玉堂、鈴木其一、柴田是真などなど、挙げていけばきりがない。だいいちジャポニズムはどう説明する?。
 YouTubeのその司馬遼太郎の声もずいぶん若いので、後には修正されただろうと思う。司馬遼太郎ほどの博覧強記でさえ「幕末にはろくな絵がなかった」といった歪んだ歴史をつかまされていることがある。司馬遼太郎にどれほど教わったかわからないのに、その司馬遼太郎でさえこんな誤解をしていることがある。怖いと思った(ちなみに、今検索したらその動画は削除されていた)。
 でも、これ、思い返してみると、ある時期までは一般の認識もそんなものだったと記憶する。出光美術館富岡鉄斎展を見たことがある。鉄斎といえば、明治の水墨画のビッグネームであったはずだが、聞くと見るでは大違いで、室町から江戸までの画家たちをふんだんに見られる今の目で見ると、評価はどうなるか?。ご自身で確認いただきたい。河鍋暁斎ですら「?」と思った。
 つまり、水墨画を、私たちはつい最近まで絵として観ていなかった可能性がある。今の私たちは、長谷川等伯とモネを並べて比べられる。でも、この感覚を持ち得たのはけっこう最近という可能性がある。不思議なようだけど、どうもそうらしい。
 若冲の再評価がいつ始まったかは調べてもらえはわかるはずだが、若冲でさえつい最近まで知られざる画家だったのである。
 さて、一枚も残っていない襖絵をどう展示するのかと言えば、残っている文書から、多分こんな絵だったろうなという、牧谿の掛け軸、周文の屏風、など。水墨画の世界が冬の気配によく似合っていた。
 有名な庭に加えて、根津美術館のもうひとつの魅力は二階の展示室なんだけれども、今回は彫漆が素晴らしかった。彫漆というのは、堆黒、堆朱しか私は知らないのだけれども、何層にも塗り重ねた上でそこに文様を彫っていく。鎌倉彫りってのがあるけれど、あれはこれを真似たものだと聞いたことがある。堆黒や堆朱の方は、木胎の部分は彫らないので彫った断面の艶やかさが違う。違った色を塗り重ねたりもするのでそれがまた意匠になったりする。
 彫漆の作品がこんな数を系統立てて展示されているのは珍しい。違いがよくわかって面白かった。「屈輪(ぐり)」と呼ばれる特徴的な文様があるのだけれど、これは特に堆黒の美しさをよく際立たせていた。
 時代が降って清朝になると質の良い漆が手に入らなくなって桐油などを混ぜるようになった。そのせいで光沢は失われた代わりに加工がしやすくなり、大きな器に精緻な彫刻ができるようになったそうだ。艶消しな朱色の彫漆もこれはこれでなかなかよかった。
 そしてもうひとつはお茶に関する展示。12月に入ったところではあるが、まだ口切の展示に間に合った。
 10月のハロウィン、12月のクリスマスに挟まれて、印象の薄い11月だけれども、11月は茶人の正月と言われる口切の茶事がある。小さな愛らしい織部振出と口切にふさわしく四国猿と銘された茶壷があった。それに、楽道入、いわゆるノンコウ作と伝わる赤楽茶碗(銘 冬野)、尾形乾山作の銹絵洞庭秋月図茶碗があった。これは将軍家の襖絵にかけているのだろうと思う。
 

被錦斎

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根津美術館の庭

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根津美術館の庭

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根津美術館の庭

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根津美術館の庭

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加藤泉 寄生するプラモデル

 加藤泉と泉太郎は現代美術の両泉と呼ばれている(知らんけど)。
 ワタリウム美術館は、いつ以来か調べてみたら、フィリップ・パレーノが最後みたい。氷がとけてるやつ。コロナ禍には訪ねなかったみたい。
 「寄生するプラモデル」は

「parasitic plastic models」

という言葉遊びになっている。
 加藤泉は、現代美術のコレクターとして知られる高橋龍太郎さんの「ネオテニー・ジャパン」で初めて見た。あの展覧会は今でも語り草になっていると思う。その後の展覧会に大きな影響を与えたように見える。
 あの時の面々の作品はその後も追いかけていて、加藤泉箱根彫刻の森美術館の展覧会も観たし、単体以外でもよく見かける。箱根彫刻の森美術館の時はご本人も来場してるときに出くわしたが、いいのかどうか分からないが作家本人に興味がないので通りすぎた。ジョン・レノンはミュージシャンのライブに興味がなくもっぱらレコードで聴くのを好んだそうだ。そりゃ、レコードのパフォーマンスがいちばん完成度が高いに決まっている。作家の表現は作品に最も生々しく表れている。そこにコミュニケーションがあると信じるからこそ作品を見たり作ったりするわけで、それを敢えて、作家本人という表現以前のただの他人、それは不快な隣人に過ぎないかもしれないone of themに後退して対面したい気持ちがよくわからない。ただ、その感覚が正しいかどうかよくわからない。

こういう作品にごたごた説明はいらない

 説明しないと成立しないアートは信じていないんだけど、感動を言葉にしたい衝動はもちろん信じているし、言葉もアートでありうるのももちろん信じている。

こういうのをごろっと見せられて

これが石ではなく石のプラモであると知らされるのは楽しい。

しかもこれが着色ではなくて

デカールとして付属するらしい。貼るのがむずかしそう。

これがそのプラモのパッケージ。

 「僕の仕事は絵画が中心だから、立体作品は絵画の視点から製作している」と書いてあったのには驚いた。彫刻家だと思っていた。

絵もいいですけどね。

 画家の自覚のあり方って面白いですね、岡本太郎の時そうだけど。

こういう立体作品があり
この絵はそのパッケージデザイン

ってイメージらしい。

 上の階に今回使用した

ビンテージプラモデル

のパッケージがたくさん展示されていた。

the visible woman

「創造の神秘」と書いてある。invisibleって透明人間の映画があったが、その対義語がこれだったとは。

 期間は長くて来年の3月までやってます。


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 ちなみに、「don’t follow the wind」の作品が初めて一般公開されたとニュースになってました。

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『土を喰らう十二ヵ月』 ネタバレあり

 『土を喰らう十二ヵ月』を撮った中江裕司監督って人は変わりものみたいだ。水上勉のエッセイを映画にすること自体が、少しはユニークだが、それをさらに沢田研二主演。原作を読むと、その当時の水上勉は現在の沢田研二よりひと回り若い。だと、役所広司とか、三浦友和とか、そういうキャスティングになってもおかしくなかった。
 でも、多分、ホンモノの京都弁が欲しかったのではないかなと思う。京都人のたたずまいというか。
 原作は、水上勉が軽井沢に独居していた頃のことを十二ヶ月に分けて書いている日記風のエッセイで、幼い頃、9歳から口減らしのために禅寺に出されていた時に憶えた精進料理を作りながら、食にまつわる思いをあれこれとつづっている。
 精進料理なので、家庭やレストランで出される料理とは違い、食材を調達する畑から作らなければならなかったそうで、舞台となる信州の古民家の前に、これはスタッフが作って、管理は地元の人に頼んだそうだ。撮影に一年かかっているのは映画を見ればわかるが(ちなみにあの初雪の夜のシーンはホントの初雪だそうで、天気予報と首っぴきになって読み切ったとパンフに書いてあった)、舞台をしつらえるのにそれ以上の時間がかかっているのは言うまでもないか。
 料理は土井善晴の監修。1年間の料理だからこれは大変な作業に違いない。最初は「この映画、どのレベルでやりたいの」と言われ、いったん「出直す」羽目になった。パンフからの引用になるが「料理は主人公ツトムの人格そのものです。料理をしている時に立ち上がってくる気持ちが、この映画には大切だと思っています」というと、土井善晴さんは、伊賀の陶工の福森雅武という人の台所や家を見せてもらうようにと紹介してくれたそうだ。
 料理をしている手は実際に沢田研二の手だろう。米を研ぐ、紫蘇をしぼる、ほうれん草の根を洗う、この辺は沢田研二の手である必要があった。おそろしく冷たそうであり、またすこぶる旨そうであった。
 『ザ・メニュー』、『ピッグ』とこのところ食に関する映画ばかり観ているようだが、『ザ・メニュー』とこれはまったく違う。偶然だが、そうやって比べてみるとおもしろい。原作も映画ももともとは道元の『典座教訓』に依っている。
 が、水上勉って人は、本人曰く「禅寺を脱走」した人だそうで、映画との関連でいうと『越後つついし親不知』、『五番町夕霧楼』、『雁の寺』など、どちらかというと艶っぽい映画の原作者として知られているだろう。
 中江裕司監督は、『土を喰らう十二ヵ月』をネタ本にしながらも、その他の水上勉作品もかなり読み漁ったそうだ。原作のテイスト通りなら、『かもめ食堂』より軽い感じの、エッセイ映画になってもよかったはずだが、奥さんを亡くして1人暮らしているところが、まず原作と違う。別荘ではなく移住なのだ。
 そして、ときどき通ってくる松たか子の演じる真知子とは、単に編集者と作家の関係ではないとわかってくる。13年前に亡くなった奥さんは真知子の職場の先輩だったそうなので、そうなると、いつからそういう関係だったのかも気になってくる。
 この男女関係がまったく原作と関係ないのが面白い。原作者の他の著書に何かあるのか知らないが、いずれにせよ、この『土を喰らう十二ヵ月』にそれを絡めたのは監督のオリジナルに違いない。
 ツトムさんの義母のモデルは原作の母方の祖母のようだが、これもオリジナルで、演じた奈良岡朋子のたたずまいが良い。ツトムが、敢えてあの写真を遺影に選ぶところに、この映画のもうひとつのテーマがあるだろう。
 ツトムの選択を真知子は「男の身勝手」となじるが、そうとばかりも言えない。真知子は都会の生活を捨てるつもりはない。というよりそこに価値観の対立を見ていない。ツトムにとっても真知子はそれ以前の生活との唯一のつながりだったと言える。身勝手と言えば、信州に隠遁生活をしながら、真知子との関係を続けているどっちつかずの状態は確かに身勝手なのだった。
 心臓発作で倒れた後、真知子が一緒に住もうというのは、ツトムの田舎暮らしに不便を観ているだけだと言える。もし、何らかの魅力を感じているなら、先に「一緒に住まないか」と言われた時に、態度はもっと違ったはずだった。ツトムもまた田舎に住まない真知子にこそ魅力を感じていたはずなのだ。
 心臓発作で倒れたツトムに一緒に住もうと言う真知子の提案を拒否するツトムの態度が理解できないのは、都会人の驕りというものだろう。少し言い過ぎか。ツトムもまた売れっ子作家な訳だから、実を言えばここに住まなければならない理由はない。その選択の根源的なところを真知子は理解していないが、実のところ、倒れるまでは、ツトム自身も自覚的ではなかったのだろう。
 最後に出てくる料理の大根は皮をむいていない。土井善晴監修であるから、見落としとは考えられない。皮をむかないことにしたのだろうと思う。『ザ・メニュー』の選択とはかなり違うが、この映画のツトムも自覚的にかなり大胆な選択をした。それは、亡くなった奥さんの散骨のシーンにも現れている。
 土井善晴さんの「どのレベルでやりたいの」という問いに対して、単なる料理映画と見せつつ、違う出口に出るってのはあることかもしれないが、観客の考える料理のレベルを超えてくるのはなかなかの力業だと思う。
 ちなみに映画の題字を書いている山内武志という人は芹沢銈介の弟子だそうである。芹沢銈介の作品は、静岡に芹沢銈介美術館があるが、日本民藝館でもみることができる。あの型染のアロハシャツがどこかに売ってないかぁと探したことがある。

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 日にちを変えて書こうかとも思ったが、ここに続けて書き加える。考えてみると、映画は原作よりずっと死に近い。確かに、原作の頃の水上勉に比べると、沢田研二は一回り年上だが、映画のツトムさんには還暦の頃の水上勉は若すぎただろう。
 信州は今では東京から車で1、2時間あれば行ける。そのためか、真知子にはそこに移り住んでいるツトムさんの気持ちが伝わらないのだし、ツトムさんもそれを伝えようとする努力もしていないように見える。
 それを男の身勝手と言い捨てることもできるが、水くさいというべきなのかもしれない。しかし、これは誰かに理解してもらわなければならないことだろうか。結局、真知子には、この映画に出てくる料理が「ツトムさんの人格そのものだ」とは思えていない。
 でも、どちらかというと、フツーの私たちは、真知子に近いはずだ。水上勉の担当編集であることと水上勉であることとの差は、もしそれが小さくとも確然としている。
 私たちはフツーに町の人で知らず知らず町の暮らしが、ツトムさんのような山の人生より優れていると思い込んでいる。しかし、町の暮らしに死はあるか?。町の暮らしは死を遠ざけて見えないものにしている。死はひどく抽象的なものになり、町の人はまるで死なないかのように、永遠に若さを保てるかのように、少なくとも、若いことこそが善であるかのように生きている。
 ファストフードを食べる時、私たちは情報を食べているとよく思う。バイクで旅している時、マクドナルドを見かけるとホッとしたものだった。その感じは旅する自分を何かに繋ぎ直す感じだった。多分それはツトムさんの暮らしとは真逆のものだったろうと思う。ファストフードは町の暮らしを動かす燃料であり、それを食べる人たちをどこを切っても同じ均一なメディアに押し込めてくれる。それこそが都市生活なのである。
 死や老いはわたしたちをそんな都市生活の規格外へと追いやる。私たちはそれを当然のことと受け止めてきたし、それをマナーとさえ呼んでいる。真知子は、そして、病に倒れる前のツトムさんも、そんなマナーを当然のことと受け止めてきた。病に倒れたことで、何が変わったのか?。都会生活で病に倒れても、おそらく何も変わらなかった。すべての老人、病者と同じく、規格外品として破棄されるだけなのである。死をサイクルの中に含んでいる山の暮らしにいたからこそツトムさんは変わった。禅の方ではきっとこれをうまく言い表す言葉があるのだろうが私は知らない。
 真知子の赤いスーツはいささかベタなくらいにはっきりと異物感を漂わせている。が、実は、私たちにとってはツトムさんの方こそ異物なのである。そのことを、あの皮むきしない大根が主張していると見える。ツトムさんがスクリーンに正対しているのはそういう意図なのだろうと思う。その決然とした風貌は確かに、沢田研二をキャスティングした監督の狙い通りなのかもしれない。

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匿名の小市民として

 映画『ハンナ・アーレント』はハンナの講義を聴き終えた友人が近寄ってきて、彼女を裏切り者と罵倒するシーンで終わったと思うが、そのシーンが印象的すぎてそう記憶しているだけかもしれない。
 ホロコーストの責任者であったナチの要人たちが、「フツーの小役人に過ぎなかった」とするハンナの分析は、ホロコーストが明らかにされたばかりの当時のイスラエルの人たちにとって、到底受け入れがたいものだったかもしれない。
 しかし、ホロコーストのような身の毛のよだつ犯罪を、フツーの小役人がやすやすと行ったからこそおそろしいのではないか。あいつらは生まれつきの悪魔だったんだと片付けてしまうことは、当然の憎しみから発したものであると同時に、また新たな差別の萌芽を含んでいることも間違いない。
 当時、それが受け入れ難かったイスラエルの人たちの気持ちはわかるが、今も、まだ受け入れられないとすると、そこにはまた別の問題があるのではないか。最も残虐な犯罪を犯しうるのは、匿名の思考放棄した小市民たちなのである。まさに『顔のないヒトラーたち』。
 先日、日本の入管施設が、また(これで何度目だろうか?)国連から指摘を受けた。

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 こんな国他にないんですよ。難民を役人がなぶり殺しにする国なんて。なぜフツーのことができないんですか?。

 ホロコーストの当時のドイツのフツーの人たちが、「私たちは何も知らなかった」というのを責めることはできないと思う。でも、それから80年も経った今、それと同じことを言うのは許されないと思う。入管で行われていることを「知りませんでした」は通らない。
 上の記事を私がやるまで誰もブックマークしないし、その上、わずか37のブックマークしかつかない。しかも、中には、国連の勧告に否定的なコメントも多い。
 呆れますけどね。完全に思考停止している。まさに、今目の前で、匿名の小市民が暴力を振るってる、その現場を見るような思いです。

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『PIG/ピッグ』

 奇しくも『ザ・メニュー』に続いて「伝説のシェフ」の物語。この映画はマイケル・サルノスキという人の長編映画監督デビュー作だそうだ。
 同じニコラス・ケイジ主演でも園子温のハリウッドデビュー作『プリズナー・オブ・ゴーストランド』の悲惨さと比べると雲泥の差だ。ああいうひどい映画を見せられた後にスキャンダルの報に触れるとさもありなんと思ってしまう。事実は知らないけれども。
 『ザ・メニュー』と違って、こちらの「伝説のシェフ」は、隠遁の志をもってオレゴンの森の中に隠棲している。一匹のトリュフ豚にトリュフを探させて生計を立てている。
 ところが、ある日その豚が盗まれる。その豚を取り返すべく、伝説のシェフとしてかつて暮らしたポートランドの街に帰っていく。
 となると、何かしら西部劇的な展開を予想してしまうけれども、そこは、そういう「ハイハイその展開ね」みたいなことでは、rotten tomatoesで支持率97%という高評価にはならない。驚くほど自然に抑制の効いた展開になっていく。
 その意味では、『プリズナー・オブ・ゴーストランド』とか 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』とか、ニコラス・ケイジを出しときゃサブカル好きが寄ってくるだろ的な発想の映画も、フリとしての存在意義はあるのかもしれません。
 なんか映画のキャッチコピーも「リベンジ」とか「スリラー」とかになってるのだけれど、そういうフリは確かにアリなのかもしれないけれど、それはちょっとニコラス・ケイジをなめすぎなのではないか。存在感できっちりミスリードしますしね。
 ある意味、『ザ・メニュー』と逆の裏切りなのがおもしろい。この2つを立て続けに観たのもよかったかも。
 こういうグルメ映画ってジャンルも確かに脈々とあるのかも。ざっと思い出すと、古くは『タンポポ』とか。個人的には、ジョン・ファブローが監督、主演した『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』が好きなのだけれど、話題になったかどうかわからない。
 ジョン・ファブローって人は、スパイダーマンにも出るし、『ジャングルブック』なんてアニメも監督するし、『アイアンマン』の監督もこの人だし、謎の才能ですね。
 グルメ映画でいうと『ジュリー&ジュリア』も好きでした。ノーラ・エフロン監督、エイミー・アダムスメリル・ストリープのダブル主演っていう。


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『ザ・メニュー』!!(勢いあまってネタバレかも)

 昨日は早起きしたので箱根に出かけたのだけれど、そんなことより『ザ・メニュー』。ぶっ飛んでしまって、観終わった瞬間に誰かに話さずにいられない。
 遅い回だったので入りは良くなかったが、スクリーンを出るや否や、前を歩いてた女の子2人が「最後のあの〇〇〇〇ーガー!」と興奮気味に話し合っていた。よくあそこに着地したと思う。

 前回に続いて、また観たけど書かなかった映画に一言するが、『ボイリング・ポイント』ってイギリス映画がありました。ワンカットはイギリス人の悪癖なのか『1917 命をかけた伝令』ってのも全編ワンカットていうウリだった。やっぱり演劇の伝統なんだろうね、ワンカットでやりたいって衝動が定期的に湧き出るんでしょう。やってる側はスリリングかもしれないけど観てる側はそうでもない。『ボイリング・ポイント』は、レストランが舞台なんだから、ワンカットでやるなら、「料理の鉄人」みたいな緊迫感を狙ってるのかなと思うじゃないですか?。じゃなくて、オーナーシェフが借金とヤク中でダメになるっつう、自然主義小説みたいな話。ワンカットでやる意味ある?。
 箱根の帰りにちょっと映画を見ようと思って『秘密の森のその向こう』じゃなく『ザ・メニュー』を選んだのは、潜在的に『ボイリング・ポイント』の消化不良が残ってたからかもな。
 それともうひとつは離小島の超有名レストランって設定。『NOMA東京、世界一のレストランが日本にやってきた』を思い出す。NOMAは離小島ではないけど、コペンハーゲンの海沿いだから。あのオーナーのレネ・レゼピって人は、イギリスの(ここでもまた)レストラン誌で「世界のベストレストラン50」に4回も一位に選ばれた店を、一年休業して、東京に出店するために日本全国を巡って食材を探した。
 で、できた料理が最後に出てくるんだけど、これが何というか。とにかく自分がグルメでないことを思い知らされた。グルメも極めると狂気の域に入りますね。 
 今回の『ザ・メニュー』のレストランはNOMA、でないかもしれないけど、そのあたりの超高級レストランをモデルにしてるのは間違いなさそう。
 そういう滅多に予約が取れない店に、ある女の子が招待されるわけ。グルメオタクの青年が直前に彼女と別れたので、たまたま彼女がご指名を受けたにすぎず、はっきりと彼女だけ浮いてる。
 この子を演じるのがアニャ・テイラー=ジョイ。『ラストナイト・イン・ソーホー』に主演した、あの、美人か、じゃないかよくわからない印象的な風貌の。『ラストナイト・イン・ソーホー』も宇多丸さんが絶賛したクライム・スリラーだったんだけど、個人的には『ザ・メニュー』の方が圧倒的にはるかに超えてる。この分野に(どの分野?)なくてはならない女優さんになりそう。
 とにかくシナリオがすごい。『カメラを止めるな!』とか『ゴーン・ガール』とか、「そっち?」っていう系のシナリオだけど、それよりはるかに現実離れしてそうなストーリーをリアルに描ききった力業もすごいし、それにきれいにオチをつけたラストもすごい。脚本のセス・ライスとウィル・トレーシーに大拍手。マシュマロとチョコレートのとこ、笑いを止められなかった。
 なんつうんすかね、痛快、集団無理心中コメディーってったらネタバレになる?。そういうことでもなく、わかってて観ても超面白いと思いますよ。この分野では間違いなく今年一番ですね。どの分野なのか悩むけれど。


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