未亡人の一年

未亡人の一年〈上〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈上〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈下〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈下〉 (新潮文庫)

この週末はジョン・アービングの『未亡人の一年』に費やした。ラフマのポップアップチェアに腰掛けて一日中本を読んでいる。健康的とも社交的ともとてもいえない過ごしかた。パソコン用にはGWに衝動買いしたラウンドチェアを使っているが、こちらは早くもほころびが見え始めた。文字通りの「ほころび」。この手の椅子は全体重を縫い目が支えている。いったんほころびができると、崩壊へのカウントダウンが始まったと思うしかない。
物語の復権という言葉がジョン・アーヴィングについて言われるとき、だいたい19世紀の小説家たちのことが念頭に置かれているみたいだ。(ちなみにわたしはジョージ・エリオットが女であることは知ってますよ、英文科の授業を受けていたおかげ。)しかし、私はその言葉を聞くとちょっと考えてしまう。その遡行は19世紀程度でとまるだろうか?物語はもしかしたらキリスト教以前まで遡ってしまうかもしれないし、ともすれば、近代科学を否定するかもしれない。物語は個別にしか存在しないが、近代科学は普遍的な再現性しか認めない。物語は一度しか起こらない。私たちはそれを信じることしかできないが、科学は何度でも同じ結果を繰り返すことができる。
もちろん、ジョン・アーヴィングについては、そのつむぎだす物語に引き込まれるばかりだけれど。人は自分の物語を生きられるか?それとも、自分の物語を生きられないから、すぐれた物語が必要なのか?というようなことを、キリスト教徒でない私は、とりとめもなく考えながら、日本の場合は、しかし、物語の復権といってもずいぶん事情が違ってくるだろうなと思ったりする。
「未亡人の一年」というこの題名は、たぶん時の観念に対する示唆なんだろう。時が一様に流れるという概念を、物語は飛び越えるものである。たとえば、シェークスピアの『冬物語』のように。
それにしても、これはまた映画化されるようだが、かなり無謀だと思う。同程度の金額を出すなら小説を読むことをお勧めしたい。映画『いつか読書する日』の原作を読んでみようと、アマゾンで検索してみたら、あれはオリジナル脚本だった。やっぱり、あの冒頭の長い長い田中裕子と岸辺一徳のすれ違いシーンは、あまりに映画的だと思った。