遊動亭円木、熱い読書 冷たい読書

遊動亭円木 (文春文庫)

遊動亭円木 (文春文庫)

熱い読書冷たい読書

熱い読書冷たい読書

「人は小説を読むことは出来ない、再読できるだけだ」
と、ナボコフは言った。
辻原登の『遊動亭円木』は、まさにそういう小説。
最終章を読み終えるやいなや、「えっと待てよ、たしか第一章は・・・」といった具合。一筋縄ではいかない。
主人公の噺家、遊動亭円木は、真打昇進を目前に日ごろの不養生が目にたたり、廃業同然となり、妹夫婦の経営する賃貸マンションの一室に居候している。
そのマンションの名前は「ボタン・コート」という。妹の亭主の趣味で牡丹が丹精されているからだ。あたり一帯は、かつて広大な金魚の飼育池だったが、今はその片鱗を残すのみ。それもすぐに埋め立てられてしまう。実は、第一章で、円木はその池に落ち溺れかかってしまうのだ。
そもそも、遊動亭円木という名にしてからが、公園などでよく見かける遊具、丸太の両端を鎖で吊って地面すれすれをゆらゆらするあれの名前、遊動円木からとられている。

生と死、男と女の間を揺れ動く、巧みな落語のようなあじわい。
吉朝の訃報以来、ちょっと気持ちが離れていた落語に、最近またふれる機会が多くなった。
柳家小三治や、桂雀三郎桂米二と、自分から積極的に落語会に出かけることもあるし、「ディア・ドクター」のように、映画の肝のところに効果的に落語が使われているのに出くわしたりもする。
この小説の設定には、先日聴いた桂米二の「景清」が脳裏に浮かんだ。
小説の中にも、志ん生文楽志ん朝小三治などの名前が見えるし、その語り口も引用されていたり、円木は江戸の噺家であるのに、わざわざ大阪に桂文枝を訪ねて、「立ち切れ」の稽古をつけてもらっていたりもする。
日本の近代小説は、イギリスやロシアから移植されたようでありながら、実のところ、二葉亭四迷夏目漱石も、語り口は落語に倣ったのだった。
そして、近代という西洋コンプレックスの憑物が落ちた昨今、落語ブームは案外もうちょっと深いところから来ているのかもしれないと、そうおもった。
先日、日本の近代史に拭いがたい汚点を残してきた人たちは、なぜか名無しだと書いた。
そう書きながら考えていたことは、日本人の宗教性についてだった。無名の一個人となったとき自己を律するものが、日本人のある一群には欠落しているのではないか。というより、一個人として生きる意味としての自己を持っていないのではないか。
キリスト教徒にとってはそれは神であるだろう。グレアム・グリーンの小説など読むと、罪に対する感覚の強さが私たちとはまるで違うと感じる。
このことは、日本の近代にずっとつきまとった西洋コンプレックスの重要な一要素だっただろうし、また、一部の日本人はその行動で自らそれを証明しさえもしたことは事実なのだろう。
しかし、今、それは少し違う景色に見える。それはたとえば、新宿や渋谷の駅前でがなりたてている、いわゆる右翼に感じる滑稽さのようなものだ。彼らは国粋主義を自任することで、日本人の中でもっとも近代西洋的なのである。「日本」にこだわるあまりに「西洋かぶれ」という、どうしようもない自己矛盾を体現していることがとてつもなく滑稽なのだ。しかも、近代国家という概念自体がとっくに賞味期限が切れている。
つまり、日本文化がコンプレックスを生んだのではなく、彼らのコンプレックスが日本文化を歪めてみていたに過ぎないのだ。
辻原登の書評集『熱い読書 冷たい読書』の「花柳小説の変種」にこんなことが書いてあった。

明治に始まる近代小説は、西欧輸入小説の圧倒的影響下に生まれた。しかし、近代的個人のスーパースターたる西欧小説の主人公たちは、キリスト教の神との対決の中から造形されたものだ。山川草木すべてに小さな神々の宿るアニミズム世界観を持つ極東の島国の人間にとって、医学や法律、官僚制度はそっくり移入できても、小説のこの主人公だけはいかんともしがたかった。

そこで、神のかわりに対決する他者として玄人のお姐さん方が選ばれた。これが花柳小説であるというのだ。
永井荷風の「あめりか物語」から「墨東綺譚」への変遷とか考えると、けっこう深いものの見方なのだ。
それで考えてみた。近代以前の日本人は、ひとりになったとき自己を律する規範を何も持っていなかったのか。考えてみればそんなはずはない。落語の登場人物の生きかたの潔さ。それはたとえば、粋であったり乙であったり。
『遊動亭円木』に登場する、円木ご贔屓の明楽の旦那や、亜紀子さんの生き方には、西欧近代小説の主人公のように、なまじキリスト教という大きなストーリーに縛られていないだけ、もっといきいきとした潔さに満ちている。
明楽の旦那が、円木と湯につかりながらこういう。
「・・・聖書では、死ぬことを、夜の扉をあける、というらしいが、わたしは、近ごろ、生と死は、昼と夜のようにそんな扉一枚でつながっているのではないような気がしてきた。
(略)
わたしが、死ということについて考えているとおもっていたのはまちがいで、じつは生について考えていたのです。・・・」
ただ、最初に書いたけれど、この小説、一筋縄ではいかない。
『熱い読書 冷たい読書』には、こんな一節もある。

 友人の四十九日をきっかけに僕はこの物語を次のように読んで見た。

 冒頭の、「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」というくだりを、「ある朝、グレゴール・ザムザは・・・・自分が死んでいるのに気づいた」と読む。

(略)

 この物語の冒頭から終わりまで、虫への変身から死までの時間は正確に一ヵ月半となっている。