京都の秋の特別公開はとっくに始まっている。が、ついこないだまではとても秋とは言えない気候だったのに、ようやくこの頃の朝夕は長袖も着ようかとなってきたので、偵察がてらに大徳寺に出かけてみた。
しかし、もちろん、紅葉していたのは大仙院のヤマボウシだけ。

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まだまだ

していた。
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は、千利休が寄進して自らの木像を納めたところ、豊臣秀吉に難癖をつけられて切腹させられることになった、例の山門。
当時の木像は鴨川に打ち捨てられたらしいが、江戸時代に千家によって復元されて今も納められている。また、金毛閣の天井画を含む荘厳は、国宝《松林図屏風》を描いた長谷川等伯の手になるものだそうだ。
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この秋、特別公開されている大徳寺塔頭のひとつ総見院は天正十一年、ということはつまり、本能寺の変の翌年、織田信長の一周忌に豊臣秀吉が建立した。
本堂には、千利休の参禅の師だった古渓宗陳の像と、織田信長の木像が安置されている。像底の朱書銘によって、本像が天正十一年五月吉日、七条大仏師宮内卿法印康清によって製作されたことがわかる。本能寺の変の翌年に彫られたものなので、面影は色濃いと思われる。

信長公一族、信長自身に加え、嫡男信忠、二男信雄、四男秀勝、七男信高、十男信好、信雄の嫡男秀雄、加えて、信長の正室帰蝶(濃姫)、ならびに、側室お鍋の方の墓がある。
といっても、ご存じのとおり、本能寺の変のあと信長の遺体は見つからなかったので、秀吉はこの木像のほかにもう一体、香木を材とした信長像を彫らせてこれを荼毘に伏した。沈香の香りが都一帯に漂ったそうだ。

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井沢元彦が言っていた。織田家の女性たちは名前が歴史に残っている。これは織田家臣以前にはなかったことだそうで、意外に見逃されがちだが、こういうところにも織田信長の先進性は表れていると。
信長の菩提を秀吉が弔ったという堂々たる来歴にふさわしい大伽藍が残っているのかというと実はそうではない。大阪城のように家康が焼き払ったわけでもなく、なんと明治の廃仏毀釈の争乱で焼き払われたそうだ。薩長政府というのは王政復古などと言いながら、千年の文化を灰燼に帰さしめた挙句に、そのわずか80年後には天皇家の存続も危うくさせた。
そのうえ、国家神道などという捏造神道を日本古来の文化のように喧伝しているのだからおぞましい。大徳寺はお茶文化の中心でもあったそうで、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を掘りぬいて井筒とした堀抜きの井戸は今も清冽な水をたたえて毎朝の点茶に使われている。この井戸も北陸新幹線がごり押しされれば涸れてしまう惧れがある。
市民が要らねぇって言ってる新幹線を無理強いするやり方が、薩長政府の廃仏毀釈から一本の線につながって見える。京都仏教会が「千年の愚行」というのはまさにその通りなのだ。
ちなみにこの

は、廃仏毀釈の害を免れた遺構だそうだ。このなだらかに裾を引く漆喰の美しさ。これがただ鐘楼なのだから、伽藍が残っていればいかほどだったかと悔やまれる。
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