『ホーリー・カウ』

 『見はらし世代』につづいて二十代の監督の作品。国籍と性別はちがう。ルイーズ・クルヴォワジエ監督は1994年生まれのフランス人女性。だと思う。生まれはスイスのジュネーヴだそうで、この映画の舞台になっている、スイスに国境を接したフランスのジュラ県に、農家の両親と移り住んだ。
 というわけで、4つ年下の団塚唯我監督の『見はらし世代』と同じく、この作品もルイーズ・クルヴォワジエ監督の実人生と重ねてみてしまう。
 そのせいだけではなく、この映画の主人公はもちろんClément Faveauの演じる悪ガキだけれど、映画の目はMaïwene Barthelemyの演じる牧場一家の末娘の方にある気がする。男の子たちは群像の一部であるように思える。とてもリアルで生き生きしているけれど、まるで、百年も前から繰り返されてきたこの地方の男たちの類型であるかのように見える。
 これは逆に、そう見えることが生き生きとして見えるということと同義でもある。この男たちは全員この土地に根付いて見える。たぶん、この男たちの親父の世代も同じように生きてきただろうと思える。現に、主人公トトンヌの親父は冒頭であっさり酔っぱらい運転で死んでしまう。7歳の娘(Luna Garret)と18歳の悪ガキだけ残して泥酔して運転するってどういうこと?。
 『見はらし世代』にあった父と子の対立みたいのはここにはない。世代間ギャップが存在しない社会もありうると思うが、それよりも、ここには女の視点を見てしまう。何なら七歳の妹さえ兄のだらしなさを見抜いている。
 もう一歩踏み込んでしまうとフランスって大農業国にしてカソリックの土壌のもっている母系社会の特性なのかもしれない。生死、善悪を達観する寛容さ。
 『見はらし世代』の団塚唯我監督はあれが東京の映画になることを意識したと言っている。宮下公園をモチーフにしただけでなく、あの映画が土地としての東京を十分に感じさせているとしても、あの登場人物たちに東京の匂いがするかといえばどうだろうか。というか、東京の人というとき、それはどんな人だと考えればいいのか、なかなか難しいと思う。小林信彦はまちがいなく東京の人、というより、伊東四朗とか、あの人たちは江戸っ子だと言った方が正しくて、これはまあ死語と考えてよいかと。
 私が東京人と感じるのはさまぁ~ずのふたり。それから、オードリーの若林さん。若い世代ではダウ9000の蓮見翔。でも、この人たちが東京に地縛的な何かを感じているのかどうかは見えにくい。
 『ホーリー・カウ』が強く土地を感じさせるのは、それに加えて、何といってもモチーフのメインであるコンテチーズ。この扱いが見事なものだったなと思う。
 中上健次の名前をあげちゃうと、見当違いなんだろうか?。男と女と土地って関係が何か連想させる。
 『見はらし世代』は、『トウキョウソナタ』を意識に置きながら作ったそうだ。どちらも息子より親父の方が印象深い。個人的には、東京の映画というと『東京オアシス』かなぁ。あれは、東日本大震災で電気が消えた東京の夜が印象的だった。それに人間の距離感が妙に東京だった気がする。
 『ホーリー・カウ』はフランスで大ヒットらしい。たぶん、フランスでもパリを描くのは困難なのかも。ジュレ県なんていうスイス国境の町に感じるリアリティーが受けるのはわかる。
 それから、なぜか『フォーチュンクッキー』を思い出していたかも。全然違うけど、フッと抜ける感じが似てる気がして思い出したのかも。演者にプロを使ってないのも似てるし。

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