昨日映画館で、外国人の親子が「ポニョ、ポニョ」といっているのを耳にしてふと思い出した。「ポニョ」は、ロシア語で相手を促すときによく使う。ほんとの意味はよく分からないが、言われている側としては「早く早く」というような意味だと捉えていた。
「ぴあ」に宮崎駿のインタビューが掲載されている。
全編手描きのアニメーションについて
「今回は鉛筆で描く実線主義を用いて、非常に簡略化した表現でやってみようと思いました。そうしたのは今までのように精密にやっていくことに、限界を感じたからなんです。精密に描くのはラファエロ前派の絵画がとっくにやっている。自分たちはそれをはるか下から見上げていることに気づいて・・・」
以前、NHKの番組でテートギャラリーを訪ねて、ジョン・エバレット・ミレーの「オフィーリア」を観たとき、同じ感想を洩らしていた。宮崎駿の進む方向にラファエロ前派があるとは、意外な気もしたが、随分遠くを見通している視野の広さに驚きもした。
しかしどうだろう。実際にラファエロ前派の傑作を前にして、方向性に限界を感じたとしたら、それはラファエロ前派の表現そのものに限界を感じたといえないだろうか。CGの発達の先にあるのが、結局19世紀に見捨てられたリアリズムにすぎないとしたらあほらしい。
企画の段階でアンデルセンの「人魚姫」からキリスト教を払拭して、幼い子供たちの愛と冒険を描くことを意図したらしい。
「9歳のときにアンデルセンの『人魚姫』を読んだんです。あの話は、最後に人魚姫は魂がないからと言って泡になってしまうでしょう。それが全然納得できなくて、いまだああいうキリスト教的な考え方は赦せない気がしていたんです。」
西洋的絵画表現との訣別は同時に日本的な絵画表現への挑戦でもある。今回の映画は水そのものが主人公とも言われている。水に生命を吹き込むことは、たしかに日本的な発想なのかもしれない。
この「ぴあ」には、どういうわけか本谷有希子が「崖の上のポニョ」のレビューを書いている。
「海を駆け抜けるポニョのシークエンスこそ本作の白眉。荒々しい感情を表現するには、全編手描きというアニメの原点に立ち戻らねばならなかったのだろう。」
とあり、つづいて
「そもそも本作は息子、宮崎吾朗への宮崎駿の返信と言うドラマを帯びる。」
と書いている。鋭い。