『サターン・ボウリング』ネタバレ

 パトリシア・マズィ監督。『ガール』のお父さん役だったアリエ・ワルトアルテ主演。その弟にアシル・レジアニ。『過激派」動物保護団体を主催するアジア系の女性にY・ラン・ルーカス。
 父と子、相続、兄弟、という聖書の創世記のカインとアベルから延々と繰り返されてきたキリスト教社会のテーマ。ジョン・スタインベックの昔なら『エデンの東』でジェームズ・ディーンがみずみずしく演じていたかもしれない役柄を、今では、アシル・レジアニが陰惨に演じる。兄弟殺しというテーマをまるでキリスト教社会にかけられた永遠の呪いのように描くその描き方のせいでまるでノアールのような味わいになっている。
 しかし、ノアールというにはあまりにも血生臭い。わざわざ「黒」を「ノワール」とフランス語に言い換える必要もないくらいどす黒くどぶ臭い。特に性描写が女性監督らしくどぎつくもなく煽情的ですらないように配慮されている一方では、性描写から暴力描写へ移り変わっていく過程がスムーズすぎて、行為のはじまりでは明らかにお互いに欲情してむつみあっている男女の行為が突然、というか、ほぼそのまま、まるで体位の入れ替えのように暴力行為に移行する。
 映画の画面でセックスが始まると、「いや、このシーンいらねぇだろ」と思ってしまうのが通例になっていた。のは、アダルトビデオが発展しすぎて、いわゆるオカズとして、性的な興奮剤としての視覚情報を公の場所で大きなスクリーンで見せられることには違和感しかないし、すべての観客がそれは見なくてもわかる。ことが始まっちゃえば、男女ともに獣でしかないでしょ?、人間のドラマにそれ入れ込む尺が無駄でしょ?、って思ってしまっていた。
 ところが、この映画のセックスシーンは映画のテーマそのものと言ってよくて、その意味で、セックスシーンも他のシーンと同様にはっきりと監督の演出意図があり、それを役者が演じている。兄のギョーム(アリエ・ワルトアテル)といい感じになる動物保護団体の女性スアン(Y・ラン・ルーカス)が「動物にしか興味ないのかと思った」といわれて「人間も動物でしょ」と返す。こういうセリフが粒立ったり浮いたりしないシナリオがうまい。
 スアンの動物保護団体も毛皮を着ている女性を縛り付けて晒したりする過激派なのも存在感にリアリティーを与えている。目的が手段を正当化すると思ってる。

 「サターン・ボウリング」ってタイトルから『罪人たち』みたいなホラーなのかとおもってたら全然違った。でも、ホラーだと思って裏切られる感じがいいかも。
 ボウリング場を経営していた親父が死んで、残された兄弟。兄は警察官として堅実に生きてるが、弟は生活に困窮している。弟は異母弟でもないのに婚外子扱いされている。家族で手を焼いていたのがわかる。親父の名前「アルマン」を受け継いだのは弟にもかかわらず親父は彼を嫌っていて遺産を何も残さなかった。
 気の毒に思った兄のギョームが親父の残したボウリング場の店長を弟にやらせる。めでたし、めでたし、な訳がなくて、この弟が客の女に手を出す、だけならコメディなんだが、ここがさっき言った見事なシーンでお色気コメディーの雰囲気から一気に暴力シーンにかわる。やりながら殴り殺してる。息を吹き返したらとどめを刺す。
 ここは女性監督ならではのシーンだと思った。女は男ガチャにはずれたらこうなる可能性は常にあるわけだから。それを言えば男だって女ガチャに外れる場合はあって、そうなると『ストレンジ・ダーリン』になるけど。
 これでこの弟がどういう問題で婚外子扱いされていたのかわかるんだけど、死んだ親父の人となりもなかなかだったようで、サターン・ボウリングは親父の狩猟仲間のたまり場になっていた。
 狩猟って文化も東洋と西洋でその背景がだいぶ違う。『バベル』で役所広司がハンティングをやってたんだけどあれは違和感しかなかった。日本でもアフリカでハンティングするのが趣味って人はいてもいいと思うが文化的背景からは切れている。日本の狩猟はどこまでも狩るものと狩られるものが同価値なのに対し、キリスト教の世界では獲物はどこまでも神が人間に食料として与えたもうたものなので、たとえば、イルカとかクジラの保護団体が「イルカを食うなんて残酷だ」と日本人を非難しながら、「でも牛は殺して当然でしょ」と涼しい顔をしているのと同じで、動物なんてそりゃ殺していいでしょうよ、こっちは神の似姿なんだしって態度なのが西洋の狩猟文化。
 面白いのは聖書の創世記でのカインとアベルでは、カインは農耕民、アベルが狩猟民で、神がアベルの貢ぎ物だけを受け取ってカインの貢ぎ物をとらなかったのを嫉妬して、カインがアベルを殺す。その結果としてカインはエデンを追われることになる。
 解釈はそれぞれだろうけど農耕は人が自然を支配する行為なので、人が自然に左右される狩猟生活から農耕生活へと移行した時点で、人は神を見失う。カインの末裔である現代人が楽しみのためだけに行う狩猟は、カインの楽園追放にイメージが連なるだけでなく、そういった信仰のありかたに無知で無関心という意味でも、二重におぞましく感じられる。
 特殊な性的な嗜好に突き動かされたアルマンの刃はついにはギョームと恋仲のスアンにも向けられる。駆けつけたギョームとアルマンの争いは、カインとアベルの戦いと混同してはいけない。彼らはどちらもカインの末裔なので。
 スアンはアルマンの背中に躊躇なく刃物を振り下ろす。アルマンがそれまで被害者たちを投げ落としていた窓から身を投げたときのギョームの顔が秀逸だった。フッと吐き出すように笑った。
 「弟を持ち運べるサイズに」したわけ。『兄を持ち運べるサイズに』もこのくらいノアールにやってくれれば面白かったろうに。あの原作者も女性だったが、海外の女性監督は男でも、というか、男ならそこまでできないよぉっていう残酷描写をやってのける。


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