エル・アナツイ、琳派展、墨宝

knockeye2011-02-17

 土曜日は、風に雪がまじる、重い空模様で、ほんとなら、ぐっとモチベーションが下がるはずだったけれど、なぜか、いちばん便の悪い、葉山の美術館に足を向けた。
 「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」という展覧会が開かれている。
 アフリカの芸術家について多くを知っているわけではないけれど、ごく若いころ、大阪で、ウスマン・ソウの塑像展を見て以来、アフリカの芸術は、いつもこころに引っかかてくる。
 今回の展示は、初期のころの木彫作品と、現在制作している空き缶のフタや、ボトルキャップをつなぎ合わせた造形作品。
 アフリカの芸術に触れることが刺激的なのは、私たち日本人の絵画が、西洋と出会った19世紀以来、その出会いに、誤解、発見、批判など、様々な化学反応を起こしながらも、結局、100年以上、お互いのアートシーンを、共通のコンテキストで見ることになれてしまったともいえるので、少なくとも私が、アフリカの芸術に触れるとき、西洋の絵画や彫刻を見るときとは違って、もう少し、深い層にまで降りていける気がすることだ。
 美と醜、快と不快、清潔と汚穢、などの対立が曖昧になって、かき混ぜられるように感じる。
 たとえば、<アメウォ(人々)>というタイトルの木彫は、単純なフォルムの並んだ人型を、まるで虫食いのような何本もの溝が横断している。その溝は、人々を傷付けていると同時に、つないでもいる。
 <ナネヴィ(さなぎ)>という木彫は、そのタイトルからも、さらに、虫食いを思わせる。溝や穴を刻まれている、材の側に立てば浸食だが、描き出されたさなぎにとっては胎動の痕跡。
 この人の木彫に特徴的な、穿たれた穴や、バーナーで焼かれた焦げ痕にも、同じように、穢れと浄化、死と生のせめぎ合う動的な存在感を感じた。
 ある意味では、無残に焼け焦げたとしかいいようのない櫛の歯、<イイダ(櫛)>や、うち捨てられたボトルキャップにも、結局、私たちは美を見いだしていくじゃないか、そして、ここに刻み込まれた溝や穴は、ずいぶんと力強いじゃないか、と思う。そういう再確認は、ときどき必要になる。
 翌、日曜は、土曜とうって変わって、日差しの心地よい日になった。
 昨日、脱ぎ捨てたままの服を着ていこうとしたけど、なんか違うという気がして、明るい色のセーターで出かけた。日陰でビル風にさらされない限り、それでちょうどよかった。私は、どちらかというと、服で春を招き入れたい派(?)で、この季節はとくに、ちょっと早すぎませんか、って言われるくらいでいいのだ。
 出光美術館琳派展の展示替え。
 酒井抱一の<四季花鳥図屏風>の、カワイイといっていいほどの小ささは、図録によると、内裏雛の背後にたてまわす、雛屏風というものだそうだ。抱一の屏風を背に引き立つお雛さまとは、いかほどのものだろうか。
 季節柄、三井記念美術館でも、根津美術館でも、お雛さまの展覧会が開かれている。そういえば、金沢の成巽閣では、毎年、この季節になると、前田家伝来のひな人形を展示していたものだった。
 この日のお天気も手伝ってか、花の絵に目が惹きつけられる。
 琳派の桜の花といえば、以前、「ニューヨーク・バーク・コレクション展」で見た、酒井抱一の<桜花図屏風>を思い出すが、今回展示されている<紅白梅図屏風>は、まだ春の浅さを思わせる、ぐっと渋い銀屏風。紅梅の花の色も、銀の劣化のせいかもしれないが、彩度を抑えた臙脂色に近い。
 鈴木其一の<桜・楓図屏風>は、左上に幹のたくましい、葉の緑の濃い楓を配し、右下に、今を盛りと咲き誇る山桜の花を描いている。交差する黒い幹のせいか、まるで、男女の向かい合う舞姿を思わせる(わたしは、アルゼンチンタンゴを踊る男女を連想した。「カフェ・デ・ロス・マエストロス」の映画を見て以来、タンゴにはまってしまっていて、今さらながら、アストル・ピアソラなどを聞いているので)。
 今回、鈴木其一を楽しみにしていた。<芒野図屏風>の霧に沈むたたずまいもすてきだった。どん欲にいろいろな絵を勉強した人らしく、<蔬菜群虫図>は、おやっ、と思うくらい、伊藤若冲に似ている。伝統の中で、もがいているとも見えるし、楽しんでいるともとれる。むしろ、そういう多彩な展開のために、其一といえばこれという個性は、とらえにくい。
 たとえば、今回展示されていた、光琳の<流水図屏風>の流水文は、「光琳波」と呼ばれていて、(わかる人には)一目で光琳とわかるそうだ。
 今回、もっとも心に残ったのは、俵屋宗達の<伊勢物語 武蔵野図色紙>かもしれない。表現が簡潔で力強い。
 伊勢物語第十二段「武蔵野」に材をとり、女をさらって逃げた男が、追っ手に追い詰められる、草むらの場面。
 添えられている歌は、
むさし野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり
 追っ手の突き出す松明がドラマティックだ。
そのあと、根津美術館に、常磐山文庫名品展「墨宝」を見にいった。
 書については、この日たくさんいた外人さん達と同じく、まったく読めないのだけれど(外人さん達は、日本人の多くがすでにああいう草書などが読めないということを知っているのだろうか?)、中世の禅僧達が、漢字というメディアを通して、国際交流していた、その豊かさがなつかしい。当時の日中の禅僧達は、筆談で意思疎通していたらしい。今でいうチャットだ。
 高校時代の漢文の授業をちゃんと受けていれば、今でも曲がりなりには、中国人と意思疎通できたのかなと思うと、それはそれで面白い気もする。逆に言えば、20世紀になっても、14世紀ころの教養を子供達に教えていたということで、どうだったのかなぁとも思う。
 絵の方では、詫磨栄賀の<柿本人麻呂像>がよかった。柿本人麻呂については、梅原猛の『水底の歌』を、もし読んでいない人は読んでもらいたい。
 詫磨栄賀は、以前<山越阿弥陀図>も見たことがある。南北朝時代の絵なのに、どちらもとても保存状態がよい。大切にされてきたのだろうと思う。

 以下、これからゆきたいと思っている美術展
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/11_vermeer/index.html
フェルメール
3/3〜5/22

http://mimt.jp/vigee/index.html
ヴィジェ・ルブラン
3/3〜5/8

http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/next.html
白州正子
3/19〜5/8

http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/rembrandt201103.html#mainClm
レンブラント
3/12〜6/12

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/H2303%20kobayashikiyochika.html
小林清親
3/1〜3/27

http://www.yamatane-museum.or.jp/exh_next.html
ボストン美術館の浮世絵
2/26〜4/17

http://500rakan.exhn.jp/
狩野一信
3/15〜5/29

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/current.html
田窪恭治
2/26(土)〜5/8(日)

http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/tenrankai/2010grandville.html
鹿島茂コレクション1 グランヴィル−19世紀フランス幻想版画展
2/23(水)〜4/3(日)

http://www.watarium.co.jp/exhibition/1101heartbeat/index.html
ハートビート
1/22(土)〜4/17(日)
 
 この最後に書いた、ワタリウム美術館の「ハートビート」展には、実は、根津美術館の後に立ち寄った。徒歩圏内だし。
 ワタリウム美術館は、小さな美術館だけれども、アロイーズ・コルバスとか、ジョン・ルーリーとか、いい展覧会が多くて、ほかの美術館と展示室の景色が違うこともあり、記憶をたどると、ほかの展覧会はどこの美術館かあいまいであっても、ワタリウムの場合は、展示室の感じもいっしょに思い出す。
 アロイーズのときは、若い男女が絵の前に座って、じっと見入ったりしていた。
 今回の「ハートビート」という展示は、何かしら、懐古的な気分のもののようにも思えた。
 アレン・ギンズバーグが、日本の笛の音にあわせて、自作の詩を朗読しているのなど、今のところ、こうした模索が、この先へとつながっていくと思えないのだが、なにか、沈んだ夕日の余韻のような、夕凪の後に吹き始める夜風のような、一瞬の既視感を覚えさせてくれるのも確かだった。
 新しいと思っていたものが、古くなる、まさにその移り変わりの時に、いま立ち会っているのかも、「アートはどこへ行くのかな」と、実際にすこし小声でつぶやいていた。