Bunkamuraのポルディ・ペッツォーリ美術館展には、最終日の5月25日に立ち寄った。
個人的には特に惹かれる展示ではなかったが、第二次大戦の戦火で焼失した、「黒の間」や「黄金の間」を撮影した写真や、ヴェネチアガラスの十字架
には、近代の戦争が何を破壊したか納得させる、つよい説得力があった。
上のヴェネチアガラスの十字架も、この
宗教行列のための十字架も、これらが今に伝えている、いわば‘時代精神’とでもいうべきものは、普遍的な宗教の精神とはとてもいえないだろうということに、現代にもし敬虔なキリスト教徒がいるなら、その意見に同意してもらえるのではないか。
仏教においても、仏壇を荘厳することを悪とは言わない。だが、たとえば、奈良時代、大仏の開眼法要に、遠くは中近東から人が集まったと言われる、そのにぎわわしさが、私たちに伝えることは、宗教の秘密ではなく、文明の明るさであり、それは、じつは、ヴェネチアガラスの十字架が伝える価値と寸分も違わない。
この十字架に、磔刑に処されるキリストの姿を想像することができるだろうか。
同じキリスト教の絵画でも、16世紀の絵画を集めたカポディモンテ美術館とは、ずいぶん違った印象だろうと思う。あちらは、結婚を拒否して乳房を切り取られる聖女アガタであり、町を救うために一夜をともにした、敵将ホロフェルネスの首をかき落とすユディト。
同じキリスト教文化といっても、自由と抑圧、解放と純潔主義といったコントラストをそこに観ることができる。
ポルディ・ペッツォーリ美術館はミラノ、カポディモンテ美術館はナポリにある。時代の違いもほんのわずかだ。
わたしたちの国になぞらえれば、明治と昭和の違いを思い起こさせる。
世界に門戸を開き、文明とともにあろうとするとき、人はたいてい平和であり、文明に抗して文化に純潔であろうとするとき、人はたいがい悲惨になる。
ところがどういうわけか、人は同じことを繰り返す。自分たちの民族が優れているとか、自分たちの宗教の方が正しいとか、そういうことを涙目になって訴える人たちが、自国の文化に詳しいとか、信仰に熱心であるとかいうことは全然ない。何度も言うように、愛国心とは我執の別名にすぎない。