『メタモルフォーゼの縁側』

 『ベイビー・ブローカー』を紹介したGCの記事に、「アメリカ映画はビジネス、ヨーロッパ映画は文化、韓国映画は国策、日本映画は趣味」という、誰が言ったか知らないアフォリズムがあった。日本映画の規模の小ささを揶揄しているのだろうが、しかし、趣味がいちばん純度が高いとも言える。母胎であるアマチュアリズムを忘れたプロフェッショナルは常に衰退していく。
 もうひとつ、日本映画には汲めど尽くさぬマンガという源泉がある。是枝裕和監督の『海街diary』も『空気人形』もマンガが原作だし、吉田恵輔の『ヒメアノ〜ル』も園子温の『ヒミズ』も原作はマンガ。
 マンガという巨大産業が日本映画の背後を支えている。だけでなく、『オールドボーイ』や『マトリックス』など、直接、間接に世界の映画の発想の源泉にもなっている。 
 しかし、このマンガの世界こそまさに「趣味」の世界で、『メタモルフォーゼの縁側』に描かれているコミケの集客力には驚かされることがある。東京モーターショーとか観に行く場合でも、たとえば国際展示場駅の雰囲気からして何となく肩身が狭い。オタクの聖地にお邪魔している感がある。
 集客力と言えば、昔、上野にコローを観に行った時、上野の森美術館でやっていた『バガボンド』の展覧会の、最後尾に「5時間待ち」というプレートが出ている行列を横目で見た。展覧会を観おえてでてくるとその行列がさらに伸びていた。
 そのような熱狂の、必ずしも末端とは言えない位置に、BLマンガの分野があるらしい。この映画で古川琴音の演じるマンガ作家は、往年の稲垣足穂とは似ても似つかないハイソな生活を送っている。
 このBLマンガの世界で、芦田愛菜の演じる女子高生と、宮本信子が演じる一人暮らしの老女の交流が始まる。
 つまり、このBLマンガの世界で、世代の壁とプロアマの壁が易々と越えられているところにこの作品の創造性がある。この超越がファンタジーかリアルかはともかく、これが政治の世界で起こってもおかしくないのだし、むしろ、起こるべきであるだろう。例えば、アメリカに舞台をとれば、これはバーニー・サンダースアレクサンドリア・オカシア=コルテスの物語でもありうる。しかし、日本ではそうはいかない。
 松田公太のTwitterによると「政党の代表を務めている時に、誓約書を2回、立て続けに破られたことがあった」そうだ。日本の政界がそんな薄寒い世界なことに今さら驚かないが、このツイートが、上島竜兵の亡くなった頃とほぼ同時期だったために、彼ら芸人の信義の厚さとの落差に暗然としたまで。一般の日本人に比べても日本の政治家は特異的に賤しいということになるだろう。
 政治家が平気で誓約書を破り、官僚が平気で文書を改竄する国で、なぜか彼らを国民が支持するという、ありえない民主主義国家である日本をどうにかこうにか風刺しようとすると、こういう表現にならざるえないのかもしれない。
 政治の世界にせめてコミケほどの熱狂があれば、日本の政治も健全でありえたはず。なぜそうならないのかと考え始めるとひと息に明治維新までたどりついてしまう。夏目漱石がなぜ日本人に評価されるかと言えば、漱石ひとりがその批判の位置にピンを立てたからだと思っている。国の外からはその歪みが見えにくいのだろう。
 ちなみに、芦田愛菜宮本信子はともに国際的に評価された女優でもある。それを言えば光石研も古川琴音もそうだろう。見た目のかわいさに反して、これは意外に大きな映画かもしれないですよという話。


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