硫黄島からの手紙

結局、プレミアスクリーンで観ることになった。プレミアは値段もプレミア。もう五分早く着いていれば、その一本前の上映に間に合ったが。
硫黄島からの手紙
クリント・イーストウッドはよくこれを描けたと、そのことに心打たれる。映画人としての執念、熱意、そういったものが、硫黄島の地熱のように心を浸してくる。
アメリカ側から描いた『父親たちの星条旗』の戦闘シーンは、どんなに残酷であっても、どこか開放的で明るいのに、同じ戦争を日本側から描くこの映画は沈うつで暗い。ほとんどのシーンが地下要塞と夜であり、戦争映画というよりも、まるで室内劇である。実際、戦闘シーンは要らなかったのかもしれない。
アメリカの兵士たちにとっては戦闘であったろうが、日本の兵士たちにとって、これが戦闘といえるだろうか。爆撃で地上が焼き払われ、本国から見捨てられ、限られた弾薬と水と食料で、勝ちは絶対になく、負けを何日か引き伸ばすだけのために、二万人を超える兵士が死んでいった。誰も初めから生きて帰る望みななど持っていなかったのだ。だからこそ、届けられるあてもなく、そこでつづられた兵士たちの手紙が心を揺さぶる。栗林忠道の最後の手紙を、戦意高揚のために改竄したものたちに、憎しみと軽べつを感じざるをえない。届かなかった手紙、届けたかった思いが、この映画の深いテーマだと思う。
改めて言うけれど、クリント・イーストウッドはよくこれを描いたと思う。この映画を絶賛した小林信彦の文章が、なぜあんなに感動的だったのかわかる。もし誰かにとって、つくらなければならない映画があったとして、それを作れるものが何人いるだろうか?そして、この映画は確かに伝えてくる。届かなかった思い。思いが届かなかったことを。