龍峰寺の桜、ジェベル200

knockeye2011-04-10

 またバイクを買った。ずっと考えていたことだが、今のメーカーカタログには、私みたいに、へたくそなくせに長旅をするバイク乗りに、向いたバイクがなく、ずっと踏ん切りがつかないでいた。
 それを踏み切らせてくれたのは今回の大震災で、職住接近を選択して、公共交通機関に依存していると、こうした非常時には途方に暮れる。
 もちろんはじめの一週間ほどは、ガソリンを手に入れるのさえ大変だったのだけれど、そういう時期が過ぎて、被災地へ駆けつけたいと思っても、錆びついたままのKLX250では、どうしようもない。
 そこで、Gooで検索して、近くのバイク屋さんで、中古のジェベル200を手に入れることにした。
 ロシアの横断にも使った、乗りなれたバイクだし、それになにより、無給油で走れる距離が長い。ガソリンが手に入りにくい状況で、威力を発揮してくれると思う。
 整備に2〜3週間かかると言われたときは、がっくり来たけれど、別に私が行かなければ、被災地の復興が立ちゆかないというわけでもなく、バイクが手に入るころに、もうボランティアなんて必要ないというような状況になっているなら、それはそれでよいことなんだし、焦らずに待つことにした。
 阪神淡路大震災のときには、何もできずに引きこもっていた私だったので、今回は、でかけていって、ゴミのひとつなりとも拾わせてもらおうと思っている。
 昨日は、春の嵐というには少し大げさでも、細かな雨がまじる、風の強い日だったが、今日バイク屋に行くつもりだったので、海老名の龍峰寺に桜を観にいった。花見の客がいなかったのは、自粛ムードのせいよりも雨のせいなんだろうと思う。
 

 今年は寒さが長く続いたせいか、花が一斉に咲き始め、海棠の花も見頃を迎えていた。

 帰路、海老名駅前の広場で、こどもたちが和太鼓をたたいているのに行きあわせた。
 海老名の駅前は、ペデステリアンデッキというややこしい名前がついた、大きい歩道橋があるのだけれど、居合わせた人のほとんどが、手すりから身を乗り出すようにして、太鼓をたたくこどもたちをのぞき込んでいた。橋を渡って、階段を下りていく途中にも、足を止めて、耳を澄ませている何人かの人とゆきすぎた。
 こどもの太鼓が珍しいというわけじゃなし、ふだんなら誰も気に留めることすらなく、通り過ぎるのではないだろうか。
 それが今は、こどもの太鼓が耳に届いたとたんに、はっとして足を留めている。
 私はこういうときに立ち止まる人間ではない。だから、あのとき、あのデッキに通りかかって、時がとまったように足を留めた人たちの姿がよく見えた。
 善意が途方に暮れている姿だと思った。
 ネットでは、‘迷惑ボランティア’なんて言葉が吹聴されているようだが、震災の寸前まで‘無縁社会’がどうたらこうたら言ってたんじゃないのか?
 縁というのは、他人の長所も欠点も、全人格的に関わることで、自分に都合のいいところは受け取るけど、気に入らないところは困りますというのでは、ビジネスでしかない。
 ボランティアは、何の資格も技術もない人が、ただ善意だけで押しかけるのだから、それを迷惑と言えばもちろん迷惑だろう。
 しかし、それを‘迷惑ボランティア’なんて名付けて書き込んでいる便所の落書きと、どちらが迷惑なんだろうか。