- 作者: ジュンパラヒリ,Jhumpa Lahiri,小川高義
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/02/28
- メディア: 文庫
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雨の日曜日、ジュンパ・ラヒリの処女短編集『停電の夜に』を読んだ。短編は自分の読みの浅さを思い知らされるときがある。訳者のあとがきを読んで「あ」とか思ったりする。そういう意味では「ビルザダさんが食事に来たころ」がすんなり入り込めた。アジア人がアメリカで暮らす感じは、日本人が世界全体に対して感じる違和感と似ているのではないかと、自分に引き寄せて読んだわけだった。
書き忘れたけど、ジュンパ・ラヒリはベンガル人の両親のもとでイギリスで生を受け、その後まだ幼いころ渡米したそうだ。
余談になるが、先週読んだジョン・アーヴィングの『未亡人の一年』に、刑事が著者近影の写真を見ながら、写真の女が目撃者か、特定しようと悩むシーンが出てくる。胸が写っていれば確信がもてるのだけれど・・・いいおっぱいをしていたからなぁ、と。それで思い出したのだけれど、著者近影ではなかったが、パトリシア・コーンウェルのオビの写真には胸まで写っていた。ケイ・スカーペッタさながらの胸であった。
ジュンパ・ラヒリの著者近影に胸は写っていないが、1967年生まれのエキゾティックな美女である。
ほろ苦いユーモアを感じる作品が多いが、しかし、もしもうひと突付きすれば悲劇に転がってしまうのかもしれない。そういう危うさが根底に常にあると思った。インドのヒンドゥーの文化については詳しく知らないが、イスラム教ほどキリスト教に近くないはずだ。仏教とキリスト教はまったく違う。仏教徒の目から見ると、イスラム教とキリスト教はうっかり混ぜてしまうとより分けられないと思えるほどだ。ムスリムとクリスチャンのあいだにある巨人阪神のような緊張感はおそらくヒンドゥー、キリスト間にはないのだろう。しかしもしひと突付きがあればどうなるか知れない。そういうひと突付きをしないように注意して歩くべきだと、私は思うし、うまく避けて通るすべを身につけなければならないと思う。
「祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である」
上の言葉は、ちょっとややこしいけど、今週の週刊文春に池澤夏樹が紹介している、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』に引用している聖ヴィクトルのフーゴーという中世の思想家の言葉である。
国会で愛国心なんか論じるのは、「繊弱」かどうかはともかく、やめてほしい。みっともないのは確かだろう。