土着信仰に似た

小さな島につきものの土着信仰は、あまりにも古過ぎて、とっくに宗教としての寿命を終えていたが、これを利用すれば、「この土人どもをうまくあやつれる」と、小ざかしいやつらが思いついた。そして、その土着信仰に似たようなものをでっち上げた。そういう小ざかしさを内心自慢にしている連中はどこにでもいる。
まともな土人は相手にしなかったろうが、小ざかしい連中だって同じ土人なんだし、連中に同調するものもいた。
そして、戦争。
繰り返しになるけれど、スタインベックの言葉を引用しておこうか。

戦場の死は、気高さとは無縁のところで起こる。ほとんどの場合、それは人肉と体液の四散であり、結果は汚い。だが、電報とともに家族を訪れる悲しみ___には、とてつもない、目にも美しいほどの気高さがある。いまさら何も言うことはなく、することもない。一つの願いだけがある。苦しまずに迎えた最期でありますように・・・・・・。救いのない、後のない願いだ。だが、この悲しみも、いずれ鋭さを失いはじめる。そのとき、それを徐々に誇りに変質させ、喪失したものの大きさだけ自分の重要性が増した、と考えはじめる人がいる。そして、戦争が終ってから、かつての悲しみを自分の利益のために役立てようとする人が必ず出てくる。ごく自然なことだ。

これが、わたしの知っている靖国神社である。