「二流小説家」

knockeye2013-06-15

 公開のはるか前から、ちょっと面白そうなんじゃないかと思っていた「二流小説家 シリアリスト」という映画を観にいった。
 けど、そのまえに、前日のエントリー(実際は昨夜書いているのだけれど)に書いたようなことを、もっと正確に、政治的にコレクトに、冷泉彰彦が書いている今年1月のコラムが見つかったので、末尾にリンクを貼り付けておく。
 そう、池田信夫という人の議論は、小さな誤解を解いて、かえって、大きな不利益を生む。実践に役立たないのだ。これは、原発のときもそうだったと、わたしは思っている。
・・・・・
 さて、映画「二流小説家」だけど、テレビのサスペンス劇場みたいだった。
 原作の推理小説を消化しきっていない。本来は、二流小説家(上川隆也)と、連続殺人犯(武田真治)の心理的な対立に作品の核があるべきだろうけれど、そのへんが曖昧か。この映画は、小説のプロットを追うことで精一杯のように見えた。
 違和感があるのは、二流小説家が暮らしている家。理想と現実の落差に鬱屈している人間が選ぶ住まいに見えない。まるで「舟を編む」の主人公が暮らしていそうな家だ。あれでは、二流小説家と連続殺人犯が、深いところで共感しているという感じが、ビジュアルで説得力を失う。後半に出てくる連続殺人犯の元の住まいとどこか似ていなければならないはずだった。二流小説家の身の上から抜け出したいという功名心を隠し持っている男の選ぶ住まいなら、もっとうわべだけゴージャスで、中身は薄っぺらな部屋でなければならなかったはずだ。
 なぜか二流小説家のもとに入り浸っている姪の役も、小池里奈は可愛くて、わたしは好きだけれど、今回の映画では、もっとコケティッシュな、実年齢より早熟な肉体の(松本さゆきみたいな)女優の方がビジュアルでは効果的だったかも。
 連続殺人犯、二流小説家、そして、被害者が、人間の型として、どこか共通していると観客に思わせないと、この映画の世界観は成立しないんじゃないかと思う。犯人と母親、二流小説家と母親、と引いてある線も消化不良。
 忙しくて小説を読む暇もないひとにあらすじを紹介する、みたいな感じになっているのがちょっと残念。
 でも、これは今の日本映画のレベルが高いという傍証にはなるかも。面白いプロットをちゃんと撮りました、だけではもう満足できないということだから。