『なめくじ艦隊』

忙しくて中断していた『なめくじ艦隊』を読み終えた。
なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)
聞き書きなので古今亭志ん生「談」である。書いたのはお弟子の金原亭馬の助、将来を嘱望されていたそうだが、惜しくも47歳の若さで胃癌に斃れた。吉朝を連想せずにはおれない。しつこいようだけれどもう一度別の記事を。

 虫の知らせだったのか−。7日朝、米朝は突然「(吉朝の病院に)行こうか」と関係者に告げ、思い立ったように尼崎市内の病院に見舞いに訪れた。吉朝さんが今年9月に再入院してから初めての対面。薬の副作用で眠りに就く時か、吉朝さんは混沌とした中で師匠に手を握られ「また来るわな。気長にやりな」と声を掛けられると1度は手を離した。しかし、吉朝さんは今度は自分から手を伸ばし、米朝に細い声で「ありがとうございました」と言ったのが、最後の会話になった。米朝は「あれが『今日はお見舞いありがとうございました』という意味だったのか『長々とお世話になりました』という意味だったのか…」。

 米朝にとっては、殊のほか大事な弟子だった。描写の細かさと確かさ、端正な語り口は師匠譲りと言われ、9日も米朝は「本当にこれからが楽しみで、私もすごく楽しみにしていた。私によう似てると言われましたなぁ」と話すと、うつむいたまま言葉が出なかった。

 先月27日、大阪市中央区の大阪国立文楽劇場で行った「米朝吉朝の会」が最後の高座であり、師匠との共演だった。病院から医師が付き添って楽屋入りし、酸素マスクを携帯。まさに命がけの舞台で45分にも及ぶ「弱法師」を披露。「奇跡の」(関係者)ネタ下ろしだった。

 吉朝さんは1974年(昭和49年)米朝に入門。同期の千朝によると「すでにアマチュアで活躍していてうまかった」というほどだった。日本アニメの元祖とされる「錦影絵(にしきかげえ)」を復活させた落語を演じたり、台湾でも落語を披露するなど精力的で、米朝は「彼の場合は誰もやりたがらない、しんどい落語をあえてやってくれた。死なれたらホンマに…」と悔しさを最後までにじませていた。

『なめくじ艦隊』は、志ん生若かりし頃の貧乏話。お金は人の命を奪うことがあるが、貧乏には、案外そんな力はないのか知れない。こないだ『物乞う仏陀』でアジアの悲惨な状況を読んだばかりなので、あんまり無責任なことも言えないが、「大金持ちになって貧乏人のように暮らしたい」といったピカソのように、人はどこかで貧乏に郷愁を感じるのかも。
しかし、相変わらず、江戸っ子の心理は理解に苦しむ。志ん生の師匠である馬生、大の仲良し、小せんが失明したのでお見舞いに行ったが、その時当時流行っていた空気草履というのを履いていった。馬生が帰った後、お上さんが
「いま勝ちゃん(馬生)が、空気草履を履いてきましたよ」
「なに、空気草履を履いてきたと」
小せんは弟子に口述で手紙を書かせ
「お前も江戸っ子だし、俺も江戸っ子だ。いま聞いたらお前はうちへ空気草履を履いてきたそうじゃないか。江戸っ子がそんなものなぜ履く。江戸っ子の面汚しだ。今日限り絶交する・・・」
驚いた馬生は、間に人を立てて謝りに行った。
「この人も悪い了見で空気草履を履いた訳じゃない。つい出来心で履いたんだから、このたびのことは勘弁してやってもらいたい・・・。」
空気草履って、ナニ?